皆さんお元気にお過ごしですか。私は茨城県つくば市東、谷田部東中斜め向かい、筑波みことば教会牧師の小堀昇でございます。運転中の皆さん、セイフティドライブでお出かけ下さい。お出かけ前の皆さん、寒い朝です、どうぞ気を付けて、ご準備をなさってください。
さて先日、嬉しいことがありました。教会の屋根を見た男の子が、「あ!十字架だ!」嬉しそうにお母さんに話しかけていました。
「十字架」という言葉が幼いお子さんの口からこぼれた、感動的な出来事でした。一番大切なこと、一番お伝えしたいことを、受け取って頂けたからです。
そもそも十字架は、ローマ帝国時代の死刑の方法の一つでした。幾つかある中でも、最も酷い究極刑です。日本ではネックレスやイヤリングのデザインになったとしても、当時のローマの人が見たら、「実におかしなアクセサリーだ」と思われるに違いありません。
ところが、この究極刑である十字架に、私たちの永遠を決める希望と、神様の愛が刻まれています。
聖書にはこのように書かれています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(ヨハネの手紙一 4:10)
イエスが十字架に掛けられたのは、彼が罪を犯したからではありません。私たちが受けるべき、私たち自身の罪の裁きを、神の御子イエスが代わりに請け負ってくださったのです。
丁度、誰かに借金を帳消しにして頂いたのと同じように、信じる者は、罪の借金である刑罰から解放されていくのです。そして神様に、「天のお父様」と親しく呼びかけることができる。悩みを語り、赦しを頂いていくことができる。そんな神の子どもとされていくのです。
私たちの一回だけの人生です。80年しかありません。2万9200日。どうぞ、この十字架をあなたも見上げてください。そこから、あなたの新しい人生が、始まるのです。