いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
旧約聖書の創世記には、人が形作られました時の様子が描かれております。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を与えられた。人はこうして生きる者となった」。
ここで大切だと思われますのは、神様が人に命の息を与えられた、と言うとことです。そしてこの「息」と言う言葉は「霊」とも訳せます。神様が霊を与えられた時に初めて人間は生きるようになったのです。そしてこのことは、人間が自分の力だけで生きているわけではないことを現しています。
しかし、わたしたちは日ごろ、自分を何かの役割を果たす機械のように考えているのではないでしょうか。何かができることが大切で、露骨に言えば、お金を稼げることが大切で、お金を得て、良いものを買えない人には価値がない。あるいは自分がそうなったらみじめだ、と感じているかもしれません。
そのような雰囲気の中で、価値なしとされた人たちは、人目につかないところに押しやられるのです。そして思い出したように、慈善などが語られます。
けれども、誰であっても、何時かは、病によって、衰えによって、無力なものになります。それで私たちは、不安なのです。自分がいつか価値のない者と看做されることに対して不安なのです。しかし、そこで思い出したいのです。私たちは神様との関係によって、関係をつくる霊によって生きるようになったのです。人間は、霊的な関わりにおいて、初めて本当に生き生きと生きるようになるのです。