いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
今日は週の始め、日曜日、礼拝の日です。
キリスト教会の礼拝にはいくつかの要素があります。例えば、祈り、賛美、説教などです。その中で今日は特に、祈りについて考えます。
祈りはある意味では、人間にとって自然な行為であるかもしれません。他宗教におきましても、祈りは存在しますし、また、普段は特に信仰を持っていない方でも、特別な時、大きな災害などの困難を目の前にした時には、「ああ神様」と思わずつぶやいてしまうことがあるのではないでしょうか。
それでは、そのような自然な祈りと、キリスト教礼拝の祈りは、どこが同じで、どこが違うのでしょうか。
まず、同じところとしましては、どちらも神様への呼びかけとなっている、ということができます。それが、どのような神様を思い描いているとしましても、自分ではない、上なる方に向かって祈っているのは確かです。
では、キリスト教の祈りの特徴とはなんでしょうか。それは恐らく、御心を尋ねること、にあるのではないでしょうか。
聖書にはこのような言葉があります。「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」。
このわきまえるという言葉は、吟味するということです。祈っている自分自身を聖書に照らして吟味するのです。キリスト者の祈り、それは、世界が自分に都合よく変えられますようにと願うのではなく、まず私はどう生きるのがよいですか、と吟味することから始まります。