おはようございます。岡本惠です。
私は、小さい頃から小学生に至るまで、何度もけがをしたことがあります。
一つは、近くにあった中学校の校庭で遊んだ時のことです。砂場がありまして、そこで砂で山を作って遊びました。その山に穴をあけてトンネルを作ります。そして、こちらからのぞくと、トンネルの向こうが別の世界のような不思議な思いがしたものです。
しかし、時間が経つと砂遊びにもあきてきました。そこでその砂場の横にあった柿の木に登ったのです。私は、柿の木の枝の先へ先へと行こうとしたのです。すると、ものの見事に、枝がぽきりと折れました。そして体は、そのまま地面に落ちてしまったのです。私は、柿の木の枝が折れやすいということを知らなかったんですね。
今から考えますと、よく頭を打たなかったなあ、と思います。でも、腰を打ちました。そして、ひざの下をすりむいてしまいました。小さなけがでしたけれど、それが覚えている最初のけがでした。
もう一つのけがは、小学校3年生頃でしょうか。父親が買ってくれた自転車に乗って遊んでいた時のことです。初めは、右と左に支えの車輪がついていました。慣れて来て、それが左だけになりました。さらに慣れてきたので、今度は、支えの車輪なしで乗るようになりました。そこで、あちこちを走り回ったんですね。
ある時、細い道でしたが、よく走り慣れているはずの、石垣のそばを通りました。ところが、どうしたはずみか、石垣にぶつかってしまったのです。そして、太いハンドルの下にあるブレーキのハンドルが、左の手の平の真ん中に当たりました。そのために、その部分がぱっくりと開いてしまったんですね。どのように治療をしたのか、覚えていないのです。でも、その時の傷は、今も、左手の中に残っています。
私たちはこのように、体にけがをしたり、そのために傷ができることがあります。体のけがや傷は、体に痛みを与えますね。
そして私たちは、体だけのけがや傷だけではなくて、心にもけがをすることがあります。また私の、左手に残っている傷のように、心の中にいつまでも消えない傷が残る、ということがあります。
そんなとき、私たちの心は、ぽきりと折れそうになります。また、輝きを失ってしまいそうになることが、あるかもしれません。
しかし、そのような私たちに対する、深い慰めと希望が、マタイによる福音書12章20節に、語られています。「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」
湖の岸辺に生えている葦の茎は、激しい風にさらされることがあります。その時には、傷つき、折れそうになるかもしれません。そのように傷ついている葦とは、心がぽきりと折れそうになっている私たちのことです。
また、灯心は、油がなくなると、炎が消えてしまいます。そして灯心はただ、くすぶるだけになるんですね。そして、油がほとんどなくなると、やがてくすぶることもなくなるでしょう。この灯心も、私たちの心のことなのです。私たちの心の中で輝きが失われると、私たちの心は暗い部屋のようになってしまいます。
そのような私たちに、イエス・キリストは何をしてくださるのでしょうか。「傷ついた葦」のような私たちの心を折るようなことは、決してなさらない、と語られています。そしてまた、くすぶる灯心のような心を、決して消すことはなさらない、とも語られているのです。
私たちの心は、さまざまな人生の嵐の中で、強風に耐えることができない、と思われる時があるかもしれません。また、心に小さく灯っていた炎さえも、消えてしまった、と悲しむ時があるかもしれません。しかしそのような私たちの心、そしてあなたの心を、イエス・キリストはいたわってくださいます。そして、決して失われることがない生きる力と輝きを与えてくださるのですね。
このお方は、今日、あなたと共に歩んでくださいます。