メッセージ: 富んでいる者たちへの警告(ヤコブ5:1-6)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
それ自体は悪くはないものであっても、使い方次第で悪いものになってしまうものが、この世の中にはたくさんあります。例えば、包丁は危険をはらんだ道具ではありますが、それ自体は悪い道具ではありません。料理をするときには欠かせない道具で、包丁の使い方次第では料理の見た目や味にさえも影響を及ぼします。しかし、この同じ包丁を、人を脅したり傷つけたりするために使えば、たちどころに包丁は悪い存在になります。
同じように富や財産も、それ自体は良いとも悪いとも言うことができません。少なくとも他人の世話にならずに、自立して行くための富であるなら、それを蓄えることは悪いとは言えないでしょう。まして、同じ富を人助けのために使うのであれば、それはもっと良いものに変わります。しかし、富を蓄えること自体が目的となり、弱い者から搾取してまで貯め込むとなれば、それはたちどころに悪いものになってしまいます。いえ、富が悪くなるのではなく、そのように富を扱う人間が悪いということなのです。
さて、きょうの個所には、富める者に対する厳しい警告の言葉が記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 5章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。
聖書の中で富は、しばしば神からの祝福のしるしとして描かれることがあります。申命記の28章では、約束の地に入ったあと、神の掟に従って生きる者には、豊かな繁栄が約束されています。そういう意味で、聖書の中では、富んでいる者が必ずしも悪者扱いされるというわけではありません。
しかし、それと同じくらい、富に対する警告もまた、聖書の中にはしばしば登場します。きょう取り上げた個所も、かなり痛烈な厳しい言葉で富んでいる者たちへの警告が記されています。
「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。」
この言葉は、主イエス・キリストが、いわゆる「平地の説教」の中でお語りになった言葉を思い起こさせます。主イエス・キリストはルカによる福音書6章24節でこうおっしゃいました。
「しかし、富んでいるあなたがたは不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」
このキリストがお語りになった言葉は、ヤコブが記した言葉と比べれば、まだ穏やかな言い方かもしれません。富を得ることで、すでにこの世での慰めを経験してしまった金持ちは、来るべき世での祝福やそれをもたらしてくださる神に関心が向かないという意味で「不幸だ」とキリストは語ります。それは、今、富める者たちが置かれている安逸な状態こそ、神の目から見て不幸なのだ、というものです。
しかし、ヤコブはそれよりももっと厳しいことを記します。富める者たちの注意を、将来襲ってくる不幸に向けさせて、泣きわめくようにと命じます。しかも、どんな不幸が将来待ち受けているのかを克明に描きます。
「あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。」
蓄えた宝は天に持っていくことができないというのならまだしも、その蓄えた宝こそ、自分が犯した罪の証拠になるというのですから皮肉です。
ところで、ここに登場する「富んでいる人たち」とはいったい誰のことなのでしょう。もし、文字通りこれに該当する者が、この手紙の受取人たちの中にいるとすれば、とても残念なことです。ヤコブがここで描いている金持ちは、神の祝福のしるしとして豊かに富んだ人では決してありません。
「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」と記されているように、弱い者から搾取したお金で富んでいる者たちです。
もし、このようなことがあちこちの教会の中で起こっているとすれば、それはとてもゆゆしいことです。おそらくそうではないでしょう。この手紙の中で「富んでいる者」に言及するのは、これが初めてではありません。2章6節に登場する「富んでいる者」は、明らかに教会の外部の人間で、教会に集う人々を脅かす存在です。
もしそうであるとすれば、直接この手紙を読むわけではないこの富んでいる人たちへの警告を、なぜヤコブはわざわざ書いたのでしょうか。
2章で富んだ人が登場したのは、一目見てそれと分かる富んだ人たちが、貧しい身なりの人たちと同時に礼拝の場にやってくる場面でした。そのとき、教会は富んだ人たちを重んじ、貧しい身なりの人を蔑むという愚かな行動に出てしまうという、誘惑にさらされました。
富んだ人たちが自分たちの集会に加わってくれるということは、教会の財政にとって有益であるように思われます。しかし、ヤコブはその誘惑を見越して、その富が、正当なものであるのか、それとも不正の結果もたらされたものであるのか、そこまでを考えるようにという警告として、富んでいる人たちに降りかかってくる裁きについて、ここにあえて記したのでしょう。
そしてまた、誰しも、この不正な富の蓄財に加担してしまう危険があることを知るべきです。自分では直接弱者を虐げないとしても、少しでも安くものを手に入れたいと願う心が、結果として、正当な報酬を受け取ることができない人々を生み出すことに加担する危険をはらんでいるのです。そういう意味で、このヤコブが記した不正な富に対する警告は、けっして他人事ではありません。弱者の叫び声はすでに万軍の主の耳に届います。
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