聖書を開こう 2016年4月21日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 主を待ち望む忍耐(ヤコブ5:7-11)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 私が小中学生だったころ、色紙に書いた寄せ書きの中心を飾る言葉は、たいてい「根性」か「忍耐」のどちらかだったように記憶しています。今時の小中学生にとっては、どちらもあまり魅力的な言葉ではないかも知れません。あるいはスポーツ好きな子供ならば、「根性」という言葉は何度も聴かされている言葉かも知れません。

 私自身はといえば、あまり「根性」という言葉は好きになれません。わたしの偏見かもしれませんが、特に信仰を持つようになってからは、「根性」と「信仰」とは相容れないように感じています。信仰を貫くということは確かに大変な困難を伴うことがあります。しかし、そうだからといって、根性で信仰を保つかというと、どうもそれは違うような気がします。迫害の中で、信仰にとどまることができるとすれば、それは自分の根性というよりは、神の恵みに支えられているからこそのことだと思います。

 しかし、「忍耐」に関しては、子供の頃よりも、もっとその重要さを感じます。特に信仰を持ってからは、自分の忍耐を考える前に、神の忍耐深さのことをしばしば思います。もし神に忍耐と寛容がなければ、わたしたちの存在すらとっくに消え去っていることでしょう。

 さて、きょう取りあげる箇所にも「忍耐」についての勧めが出てきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヤコブの手紙 5章7節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。

 ヤコブの手紙も、あと少しを残すばかりとなりました。ヤコブは手紙を締めくくるに当たって、主の来臨のことを話題に上らせます。

 「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。」

 主が来られることに関しては、イエス・キリストご自身、「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」(マタイ24:27)とおっしゃって、ご自身の再びの来臨を約束しています。それに呼応するように、教会の側でも「マラナ・タ。主よ、来てください」(1コリ16:22、黙示録22:20)という言葉が合言葉のように定着していました。

 新約聖書の時代の教会には、主の来臨が近い、という期待感と緊迫感があふれていました。きょうお読みした箇所にも「主が来られる時が迫っているからです」という言葉が出てきます。ヨハネの黙示録もまた、この黙示録の内容が「すぐにも起こるはずのこと」を示した書であることを冒頭で語っています(黙示録1:1)。そして、ヤコブの手紙と同様に、「時が迫っている」(黙示録1:3)ということを語ります。

 しかしまた、その期待があまりにも大きいために、「主の来臨が緊迫した状況にある」ということが、「きょう明日にでも主の来臨が起こること」と誤解され、信徒たちの間にさまざまな動揺をもたらしたことも事実です。たとえばテサロニケの信徒への手紙の中には、主の来臨のときを待たずに世を去ってしまった兄弟姉妹のことをどう考えたらよいのかわからず、動揺する信徒たちの様子が描かれています(1テサロニケ4:13以下)。またテサロニケの第二の手紙によれば、テサロニケ教会の周りには、主の来臨のときが、実はすでに来てしまっているとまで言いふらす者たちがいたようです(2テサロニケ2::2)。

 それほどまでに、主イエス・キリストの来臨への期待は大きくもあり、同時に信仰を揺るがす原因ともなっていました。

 ヤコブは、主が来られるときまで、忍耐するようにと勧めます。すでに、ヤコブはこの手紙の冒頭で、「試練」や「忍耐」について語ってきました。もし試練や忍耐に期限がないのであれば、どんなに信仰深い人であったとしても、やがては力が尽きてしまいます。しかし、どんな試練にも終わりがあるとわかっていれば、それに立ち向かう力も湧いてくるものです。

 主が来られるとき…それは、すべての悪に終止符が打たれ、神の御国が完成するときです。黙示録の言葉で言えば、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界の完成です(黙示録21:4)。そのときが来ることを期待し、そのときがいつ起こっても不思議ではないほどに切迫していると知っていれば、試練に遭うときにも忍耐を持って立ち向かうことができます。

 この忍耐について、ヤコブは三つの例を引き合いに出しています。一つは農夫の忍耐であり、もう一つは預言者の忍耐でり、三つ目はヨブの忍耐です。

 農夫の忍耐は、信仰者の忍耐と共通した点があります。農夫にも収穫の時というゴールがあります。しかし、収穫の時を迎えるには、そこに至るまでの道のりがあります。自然を相手としているだけに、その道のりは、人間の思い通りには行きません。雨ひとつ降らせることも、人間にはできないからです。種まきのためにも、また成長のためにも雨は必要です。季節がめぐってきて、初めて収穫のときを迎えます。しかし、その道のりのひとつとして、人間がコントロールできるものではありません。できることは、収穫にふさわしいときが来ることを忍耐して待つことです。

 ヤコブが例に挙げたもうひとつの忍耐は、預言者の忍耐です。

 聖書の預言者は自分で語るのではありません。預言者という名前の通り、神から言葉を預かって語る仕事です。自分で語る言葉を決めることはできません。言葉を届ける相手が、素直に神の言葉を受け取るとは限りません。時には反抗することもあるでしょう。それでも、神が託してくださった言葉が必ず成就することを信じて、忍耐して語ります。それは神に対する信頼があるからできることです。

 主が約束してくださったことは、必ず果たされる、そう信じて主に信頼するときに、忍耐にも力が与えられます。

 最後にヤコブが忍耐の模範をあげたのは、旧約聖書に登場するヨブの例です。ヨブはあらゆる苦難の中で、神に対する忠実を貫こうとした人です。ヨブが試練を忍耐して学んだことは、主がどれほど慈しみ深く、憐れみに満ちたお方であるかということでした。

 この地上での信仰生活には試練がなくなることはありません。しかし、それを忍耐して受け止める時、主の慈しみと憐れみとを実感する恵みをいただくことができるのです。

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