聖書を開こう 2016年6月16日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 恵みを待ち望む(1ペトロ1:13-16)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 初めての道を進むというのは、だれにとっても不安が伴います。不安に思いながら進むと、目的地に到着するまでの時間がとても長く感じられます。同じ道でも、行きと帰りとでは、帰りの方が早く感じるのは、不安が少ないからでしょう。

 道順を示した地図も、情報が少なければ不安も増してきます。しかし、詳しければ、それだけ確信をもって前に進むことができます。たとえば、「四つ目の交差点を右に」とだけ書いてある地図を渡されたとしたら、いったい四つ目の交差点がいつ出てくるのか、見落としてはいないか、ほんとうに自分が曲がった角が四つ目なのか、不安が増してきます。ところが、「コンビニのある交差点が三つ目で、そこから3百メートルぐらい走ると、右側にマンションが見えてくるから、その次の信号で右に曲がって」と言われれば、いつどこで曲がればいいのか心の準備もできます。

 聖書はしばしばこのような親切な道案内で、わたしたちの信仰の歩みを励ましてくれます。きょうの個所も信仰の道を進むクリスチャンたちを励まして、どう進むべきかを教えてくれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 1章13節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。

 きょうの個所は「だから」という言葉で始まります。「だから」という言葉は、今まで述べてきたことから、結論を引き出す言葉です。これから述べようとすることが、全く根拠のないむなしい結論ではなく、すでに述べてきた事柄を注意深く聞けば、当然このような結論を引き出せるときに使います。

 では、引き出される結論はどんなものでしょう。それは「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」というものです。もちろん、何もしないで、ただ、ぼーっと待っていなさいということではありません。「いつでも心を引き締め、身を慎んで」待つようにと勧めます。

 いったいどんな流れで、このような結論に至ったのでしょうか。手紙の流れをもう一度おさらいしてみたいと思います。

 ペトロは1章3節から始まる段落を、神への賛美で始めました。そこには、父である神が何故ほめたたえられるのにふさわしいお方であるのか、神の恵みの御業が記されています。一つは死ぬべきわたしたちに生き生きとした希望を与えてくださったこと、二つ目には、相続人としてわたしたちを天の財産を受け継ぐものとしてくださったこと、さらには救いの完成へと守り導いてくださっていることです。

 そのような恵みあふれる神をいただいているわたしたちなのですから、6節で「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです」という結論をペトロは述べました。

 しかし、「救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られている」とはいえ、何事もなく、ストレートに救いの完成へと向かって歩むのかというと、必ずしもそうではないことをペトロはつけ加えています。

 「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません」

 この言葉は、確かに不安を駆り立てる要素です。もし、試練によって振るわれて、救いから漏れてしまうようなことがあるとすれば、今いただいている喜びも一気に覚めてしまいそうです。

 しかし、すでに述べたように「救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られている」のですから、ペトロがここで試練について語ったのは、不安を煽るためではありません。むしろ、試練が襲うことをあらかじめ伝えたうえで、その試練が持っている積極的な意味を悟らせ、試練に向き合うようにさせるためでした。

 試練が持っている積極的な意味、それは試練によって信仰が練り上げられ、本物であることが明らかとなることです。現にこの手紙の読者は、目に見えないキリストを信仰によって受け入れ、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれている人々です。その信仰は今でさえも明らかですが、試練を通していっそう確かなものとなるのです。

 しかも、自分たちがいただいているキリストによる救いは、ほかならない自分たちにたいして備えられたものでした。旧約の預言者も御使いたちでさえも、その全貌を味わうことができなかったのです。

 そのようなことを受けて、きょうの個所は「だから」と命じています。試練を受けて不安に思う必要はありません。むしろ、確信をもって信仰に踏みとどまることが命じられています。

 「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

 恵みをひたすら待ち望むその姿勢は「いつでも心を引き締め、身を慎んで」待つ姿勢です。

 具体的には、「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となる」ことです。「無知であったころ」とは、キリストを信じる前の自分の状態を指す言葉です。キリストと出会う前は、様々な価値観や教えに翻弄され、神を正しく知りえなかった時代です。試練に遭うとき、再び無知であったころに戻るようであってはなりません。それは神の言葉の道案内から逸れた道です。

 正しい歩みは、試練の時にこそ、わたしたちを召してくださったお方のきよさに倣うものとなることです。

 そのように進むことができるのは、父なる神が救いへと力をもって導いてくださっているからです。神が聖書を通して、救いの道順を丁寧に示してくださり、その道を歩めるようにと力をもって守ってくださっているのですから、それに従って歩むことこそわたしたちのなすべき務めです。

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