いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
私たちは普段何気なく「キリスト教」といい、また「教会」と言います。その場合にはなによりも「教え」を大切にしているということになるはずです。
しかし、その場合の「教え」とはいったい何を指すのでしょうか。聖書全般のことでしょうか。あるいは、キリスト教のいわゆる教理と呼ばれるもの、すなわち、キリスト教から見た神様とこの世界についての見通しのことでしょうか。それぞれ確かに大切なものであることは間違いありません。けれども今日は、ただ一つの出来事からこの「教え」について考えてみます。
ある時主イエスは、人々に聖書を教えておられました。人々はその教えに驚き、なんで学者でもないのに、こんなに聖書のことをよく知っているのだろう、と言いました。
それに対する答えは「私の教えは、自分自身の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。」でした。主イエスが語っておられる言葉は、自分の知識や思いつきではなく、根本的なところで神様からきていると言われたのでした。そしてその主イエスの教えは「この方の御心を行おうとするものには、わかる。」とも言われました。(ヨハネ7:14-17より)
この方とは当然神様のことです。そうしますと、神様から与えられた思いを語る主イエスのお言葉は、神様に思いを向けている人にしっかりと届く、ということになります。神様の思いがそれをたずねる人にしっかりと届く、キリスト教会が大切にしてきたのは、この「教え」です。