綱島教会の小宮山裕一です。
私たち日本人にはなじみのあるようでなじみの無いものに、古事記や日本書紀といった書物があります。どちらも昔の書物ですが、現代語訳もあるようです。
ある古事記の現代語訳冒頭はこのようなものです。
「なにもなかったのじゃ…言葉で言いあらわせるものは、なにも。あったのは、そうさな、うずまきみたいなものだったかいの。」(三浦佑之「口語訳古事記 完全版」文藝春秋、2002年)
言葉で言いあらわせるものはなにもない。つまり、なにもそこには存在していないということです。物体はなにもなく、ただ得たいのしれない渦巻きのようなものがそこにあったというのです。
古事記は世界の始まりをなにもない、言葉であらわすことができるものはなにもないといっていますが、それでは、聖書はどういっているのか、といいますと、聖書の最初のところにはこう書いてあります。創世記の1章1節から3節です。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」
ここにありますように、聖書にはなにもない世界ではなく、神がいる世界、神が言葉によってこの世界をお造りになった世界であるというのです。言葉で言いあらわせるものがない世界ではなく、言葉そのものがはじめからあった世界です。
言葉のないところから生まれた世界と、初めから言葉のある世界。あなたにとってどちらが魅力的でしょうか。