いかがお過ごしでしょうか。国立聖書教会の野島邦夫です。
善い事をすれば天国へ行けるし、悪い事をすれば地獄に落ちる。そんな誰の心にもある思いは、イエス・キリストへの信仰を強調するキリスト教には関係無いのでしょうか。
今日は、この善い事悪い事の意味をもう少し正確に考えます。
善い悪いの感覚は人により強さの程度の差は違いますが誰にもあります。それは、心の中には良心があり、家庭や社会の中で「これは善い、これは悪い。」と聞き覚えるからです。このことはとても大切ですが、社会の道徳基準はそれぞれに、また時代と共に変わります。つまり相対的です。
主なる神が定められた善悪の基準、律法だけが不変で絶対的です。問題は、この律法を、その全体を、生涯貫いて誰が守れるか、です。しかも主は、外的な言動だけではなく、それらが出てくる心の中の思いをチェックされます。
人は生来傲慢なのでしょうか。実際その様で、いつの世の人も自分は律法を守って救われると考えました。私たち自身の中にも、善い事もしなくては救われないし、それを行う力があるという思いが根深くあります。その過信がある限り救いは得られません。
自分は社会では通用していても神の目に適うことは何もできないと知ることが大事です。その時、救われるためには「ただキリストへの信仰のみ。」ということが身に沁みてわかります。