いかがお過ごしですか。新座志木教会の杉山です。
旧約聖書の創世記にヨセフという人が登場します。創世記ではアブラハム、イサク、ヤコブと続きまして、ヨセフでおしまいとなります。
創世記において大切なのは、アブラハムが神様からいただいた祝福の約束が代々受け継がれていくということです。それはヨセフにも受け継がれるのですが、ヨセフについて語っております聖書の言葉は、以前のアブラハムたちについての所とは少々違った感じがします。それは一言でいえば、神様の語りかけの方法の違いです。
例えば、アブラハムの場合でしたら、神様は最初から彼に「私が示す地に行け。」と語り掛けられました。けれども、ヨセフについては、このようにして神様、あるいはみ使いから語り掛けられるという様子が見られないのです。
では、このヨセフのところで神様は沈黙しておられるのでしょうか。確かにわかりやすく言葉を発することはされません。しかし言葉以上に、一つ一つの出来事を通して、人間の思いや行動を通して、とても雄弁に語っておられるといえます。
それは何気ないことと思えるような言葉、例えば父ヤコブが、ヨセフのためだけに特別に「裾の長い晴れ着を作ってやった。」(37:3)と書いていること、あるいは、ヨセフのみた夢を聞いた兄たちが「お前が(我々の)王になるというのか。」(37:8)と怒ったことにおいてです。
すでにこの後、ヨセフがどのような者になって行くのかが、示されているのです。このように神様は時として人の言葉や、小さな出来事によってもご自分のご計画を語られるのです。