いかがお過ごしでしょうか。東京練馬の光が丘キリスト教会で牧師をしております、尾崎純と申します。
聖書には、礼拝とはどのようなものであると書かれているでしょうか。
ローマの信徒への手紙12章1節には、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と書かれています。あなたがたの体を神に「献げなさい」と言われていますが、この「献げる」という言葉の元々の意味は「そばに置く」ということです。そばに置いて、相手のものとして自由に使ってもらうということです。
ですから、ああいうことをして神様に奉仕したい、こういうことをして神様に奉仕したいと考えるのでは、自分を神様に献げたことにはなりません。私たちがどういうふうに用いられるのかは神様が決めるのです。ですからここで、自分自身を「生けるいけにえとして献げなさい」と言われています。いけにえというのは、動物を殺して神様に献げることです。私たちは、動物を殺して献げるように、自分の意志をすべて神様にゆだねるのです。
教会では日曜の朝、集まって礼拝をしますけれども、礼拝というのは、人生に一つの場面を付け加えるだけのことではありません。私たちの生き方が全く新しくされることが礼拝なのです。今まで自分を生きてきた。これからはその生き方を止めて、自分をすべて神に献げて、神に用いられていく。自分が180度変えられることが礼拝なのです。