おはようございます。清和女子中高等学校の校長の小西です。
先日のことですが、テレビを見ていましたら、インタビューを受けていた若いタレントが文楽を見るのが趣味だと言いました。へえっと思いました。それは若い人には珍しいと思ったからです。
人形劇には上から糸で操るマリオネットと、下から操作するギニョールがあります。どちらも1体の人形を1人で操りますが、文楽は1体の人形を3人で操ります。しかもふつう操る人は姿を見せませんが、文楽は3人とも姿が見えます。2人は黒子という黒い衣装を着て顔も隠すのですが、メインの人形遣いは羽織袴という正装で、堂々と顔を見せながら人形を動かします。
1体の人形を3人でというと、息が合わなければうまく動きません。わざわざ不自由な動かし方をするのです。そうすると不思議なことに、人形が生きている人間以上の表情や動きを見せるのです。そして文楽には人形遣いの3人だけではなく、三味線を弾く人と三味線に合わせて浄瑠璃を語る太夫の3点セットで演じられます。
私が文楽を初めて見たのは高校の芸術鑑賞でした。そうした場面でよくあった光景が、興味のない生徒がサボって逃げ出さないように、先生たちが周りで見張っていたことです。
私の50年近く前を思い出させてくれる小説が三浦しおんさんの「仏果を得ず」です。主人公の健(たける)は芸名「健太夫」という文楽の浄瑠璃語りです。笹本銀太夫という人間国宝の元で修業を積んでいる30歳の若手です。彼が文楽と出会ったのは高校の修学旅行で、スケジュールの中に文楽鑑賞が組み込まれていました。
当日の様子は私の高校時代よりももっとひどいもので、生徒が逃げ出そうとするのを先生がゴツンとやって席に戻すのです。おとなしく座っていると思ったら、ただ寝ているだけという生徒もいました。
新しい出会いに関心を持ってワクワクできる人とそうでない人がいます。そうでない人に共通しているのは、日常生活そのものが楽しめていないことです。健もつまらなそうな高校生活を過ごしていました。その日も幕が開く前から熟睡をしていました。
ところが突然誰かに石をぶつけられたように感じて目が覚めます。けれど周りの同級生たちは一様におとなしく舞台の方を向いていました。すると、再び何かが体にぶつかってくるような感覚がしました。
とっさに右のほうを見ました。そこには小さな舞台があって、羽織袴の2人の男が座っていました。1人は三味線をかき鳴らし、1人は表情を変えながら、時には歌うように、時にはささやくように、何やら熱心に語っています。
次の瞬間、健は体ごと魂を揺さぶられました。その老人の発する言葉とエネルギーに、まるで石を投げられたように打たれたのです。健はやってやろうと舞台の上の老人にメンチを切ります。
ところが勝負は健の完全な負けに終わります。いつのまにか老人の語りに引き込まれていったのです。
こうして文楽に目を覚まされた健は、自分の人生そのものに目覚めていきます。健は年寄りくさいと思われる文楽に心を奪われたことを知られるのが嫌で、周囲に黙っていたのですが、いよいよ進路を決める時になって、自分の気持ちを明らかにして文楽の研修所に入りました。それからの10年、悩みながらも充実した毎日を過ごします。
高校生が必ずしなければならないことに、進路を決めることがあります。進路を決めるというのは、どの大学に進学するのか、どの専門学校に入るのか、何という会社に就職するのかという、所属先を決めることだけではありません。どのような生き方をするのか、自分は何を大切に生きていくのかを考えることです。
健の場合、それが瞬間的にやってきたように見えます。石をぶつけられたような、神様に襟首をつかまれ、引きずられるような出来事でした。
なかなか自分の進路が決まらない人にとって、健の体験がうらやましく思えるかもしれません。でもそれは後から思えること、他人が考えることであって、健にとってその瞬間は、むしろふざけるなと思うような出来事であったのです。
そしてもう一つ確かなことは、何も考えていないようで、実は高校生の健は自分の進路に悩んでいたのです。悩んでいるそこに、石を投げられたような「痛い出会い」が起こったのです。そこから考えて、人間にとって悩むことが、悩みを抱えることが、生きる上でとても大切なことであることがわかります。
どのような生き方をするのか悩む、そこに神様は誰かの言葉を通して、誰かの行為を通して、道を拓いて下さろうとしているのです。キリストを信じるとは、それを前もって知った生活をすることでもあるのです。