おはようございます。清和女子中高等学校の校長の小西です。
「デュークが死んだ。私のデュークが死んでしまった。私は悲しみでいっぱいだった。」という言葉から始まるのが、江国香織さんの小説「デューク」です。
主人公は21歳の女子大生で、デュークは家族の一員として長い間共に生活をした犬でした。デュークが死んだ次の日、主人公はアルバイトに行かなければなりませんでした。明るい声で「行ってきます。」と家を出たとたん、涙があふれてきました。
泣きながら駅まで歩いて、泣きながら改札口を通って、泣きながらホームに立ち、泣きながら電車に乗ります。混んでいる電車の中で、人目もはばからないで泣いている人を見れば、当然周囲の人はじろじろ見ます。ふだんなら恥ずかしくて人前で泣くことなどないのに、お構いなしに涙を流し続けます。
その時です。
主人公に、年下と思われる少年が「どうぞ。」と席を譲ってくれました。これもふだんならあり得ない「ありがとう。」で答え、素直に座ったのです。
前に立った少年は、主人公の顔をのぞき込みます。
それをきっかけに、2人は一日、一緒に過ごすことになります。
喫茶店でコーヒーを飲んで、温水プールで泳ぎ、アイスクリームを食べ、美術館に行き、演芸場で落語を聴き、夕方になりました。
季節は12月の初め頃でした。大通りにはクリスマスソングが流れています。
少年が主人公に言いました。「今までずっと、僕は楽しかったよ。」
そう言われて主人公も答えました。「そう、私もよ。」主人公は少年の言葉が、その日一日の出会いのことを指していると思ったのです。
もう一度少年が言いました。
「今までずっと、だよ。」
少年の目を見た主人公は、そこでハッとします。それは懐かしい目でした。
唖然として声も出せずにいる主人公に、少年が言いました。
「僕もとても愛していたよ。」「それだけ言いにきたんだ。じゃあ、元気で。」
少年は青信号の点滅している横断歩道にすばやく飛び出し、駆けていきました。
少年はいったい誰だったのでしょうか。悲しんでいる主人公のところにデュークが姿を変えてやってきて、別れのあいさつをしていったのでしょうか。
それとも、その日何もすることがなく、何かおもしろいことはないかと考えていた一人の少年が、自分の目の前で、人目もはばからずに泣いている女子学生を見て、からかうつもりで声をかけたのでしょうか。そして、主人公から飼い犬が死んだ話を聞かされ、そこで別れる時に、わざと意味ありげな言葉を言って立ち去ったのかもしれません。
しかし、主人公は少年との出会いを通して、そして別れる時に言われた「僕も、とても愛していたよ。」「それだけ言いにきたんだ。じゃあ、元気で。」という一言に慰められました。長年一緒に暮らしたデュークによって、自分がいかに毎日の生活の中で励まされてきたのかをあらためて知ることになったのです。
デュークによって心が育てられ、人として成長させられてきたことを知りました。
さらにこの一言によって、死んだデュークがただいなくなったというのではなく、むしろデュークとの関係が永遠のものになったということに気づかされます。
小説「デューク」が教えてくれるのは、言葉には力があり命があることです。人を慰め励まし、人を生かす力が言葉にはあるのです。
言葉には力があり、時には人格を持ちます。それだけに言葉は人をどん底に突き落とす力もあります。許せることではありませんが、人の命を奪うこともできるのです。
キリスト教の学校は、言葉を大切にしてきました。聖書は言葉によって、神がどのような存在であるかを教えてくれます。
「デューク」を通して明らかになること、それは神様はその人の今に必要な言葉を必ず何かの形で与えてくださるということです。しかもそれはうれしい出来事を通してとは限らないのです。
私たちは毎日の生活の中で、学校生活を通して、そうした言葉に出会うのです。そう考えると、毎日の生活のすべてを大切にしたいと思える自分になります。