聖書を開こう 2018年3月22日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  始まりは小さくとも(マルコ4:30-34)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ギャップの大きさにびっくりするということは、よくあることだと思います。普段まじめに見えて、冗談など言わない人が、ある時、一言面白いことを言うと、そのギャップの大きさにいつまでも語り草になるものです。
 人間がありんこを気づかずに踏みつぶしても、話題にもなりませんが、逆に真っ赤に腫れあがった皮膚の原因が小さな昆虫にやられたからだとなると、大変なニュースになります。相手が小さいからといって油断できません。

 イエス・キリストがお語りになるたとえ話には、こうしたギャップの大きさを巧みに織り込んだものがあります。きょう取り上げようとしている「からし種のたとえ」として知られている話もそうです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 4章30節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 イエス・キリストは「神の国」についてお語りになるとき、様々なたとえをもって「神の国」を表現してきました。今、お読みした個所では、「神の国」は「からし種」にたとえられています。では、からし種のどんな点を神の国に似ているとしたのでしょうか。

 からし種は、地上のどんな種よりも小さい、という点が最初のポイントです。もちろん、植物の中にはからし種よりも小さな種も存在するかもしれません。イエス・キリストがおっしゃっているのは、植物学上の問題ではありません。話し手と聞き手の共通した理解の中での話です。パレスチナで小さな種といえば、誰もが「からし種」のことを思い浮かべるということが前提の話です。

 ただ、イエス・キリストが神の国をたとえるのに、からし種を用いたのは、その小ささの点だけではありませんでした。種から芽生え出て育つものが、種の大きさからは、想像もできないような大きな植物になる点です。

 イエス・キリストはおっしゃいます。

 「土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 このギャップの大きさこそ、神の国をたとえるのにふさわしい特徴です。

 それも、ただ大きくなったというばかりではありません。鳥が巣をつくるというのは、よほどのことです。頼りにならない草花に鳥が巣をかけたという話は聞いたことがありません。子供のころ、ひまわりの種を蒔いて、自分の背丈よりも大きく育てたのを覚えていますが、そのひまわりに鳥が巣をかけたことなど見たことがありません。大きく育ったからといって、鳥にも安全かそうでないか見分ける力はあります。ただ小さなものが大きく育ったというばかりか、鳥が巣をかけるほど、身を寄せるに安心な大きさということです。

 さらに言えば、初めは小さくても大木に育って鳥が住み着くような植物なら他にもいっぱいあるでしょう。例えばレバノン杉だって、最初から大木だったわけではありません。そして、聖書の中では実際、「王国のたとえ」としてレバノン杉が使われてもいます(エゼキエル書17:22-23)。しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストが「からし種」を選ばれたのは、その成長の速さということもあるでしょう。樹齢何百年ともなれば、大きくなるもの当たり前です。しかし、1年ほどで大きく育って鳥たちがやってくるとなると話は別です。急速な成長ということも言外に含まれているのかもしれません。

 いずれにしても、イエス・キリストの運動は、この時点では、まだまだ始まりに過ぎなかったということは否めません。現時点でのキリスト教会の世界的な広がりと比べるまでもなく、このたとえが語られた20年後と比べてみても、パレスチナの片隅で起こった運動にすぎません。この時代のほとんどの人たちは、イエス・キリストの運動を見て、そう評価したかもしれません。

 けれども、イエス・キリストが説く神の国は、決してそのままで終わるものではありませんでした。もちろん神の国の進展とキリスト教会の発展を同一視することはできませんが、完全に切り離して考えるべきものでもないでしょう。少なくとも、神の国に身を寄せようと願う者たちの数は、キリストがこのたとえ話をお語りになった時よりもはるかに多いことは確かです。

 いえ、何よりも大切なことは、イエス・キリストが神の国をそのようにからし種にたとえてお示しになったということこそ大切な点です。神の国は始まりは小さなものにしか見えなくても、かならず大きく成長し、そこに身を寄せる者たちが、安心してより頼めるほどのものとなるということです。

 考えてもみれば、この時、イエス・キリストの周りに集まっていた弟子たちは、とるに足らない者たちばかりでした。ペトロやヤコブやヨハネにしても、一介の漁師にすぎませんでした。もちろん漁師は立派な職業でしたが、その者たちが何かを成し遂げると期待されるような人たちではありませんでした。実際、その当時のユダヤ教の指導者たちの目から見れば、「無学な普通の人」(使徒4:13)にすぎませんでした。まして徴税人や罪人と呼ばれる人々までもがイエス・キリストに従い始めるのを見て、人々がこの集団に期待できるものなどほとんど何もなかったといっても言い過ぎではないでしょう。

 そうであるからこそ、イエス・キリストはあえて神の国を小さなからし種に例えられたのでしょう。そうであるからこそ、神の国の進展の大きさと確実さをからし種の成長になぞらえたのでしょう。このたとえこそ、イエス・キリストに従う者たちに希望を与えるものです。

 始まりの小ささに落胆と失望をするのではなく、ここから始まる成長の大きさにこそ、期待すべきなのです。神がからし種を通して示しておられる真理が、まさに神の国に実現するのです。日本においてもそうですが、キリスト教が少数派である国や地域はまだまだたくさんあります。そうであればこそ、イエス・キリストが語ってくださったこのたとえ話には力があるのです。

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