聖書を開こう 2018年12月27日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  宮清め(マルコ11:15-19)

 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしが所属している教派では、教会堂の建て替えの時期を迎えて、新しく教会堂を立て直した教会がいくつかあります。教会堂が老朽化したり、あるいは人数が増えて会堂が手狭になったり、理由は様々です。せっかくの機会ということで、教会建築の歴史を学んだり、あるいは自分たちの将来のビジョンを語り合って、ふさわしい建物にしようと工夫を凝らします。

 近隣の教会堂を見学するために訪ねて行くと、自分たちの教会堂についての思い入れをたくさん聞かされます。それくらい、教会の建物と教会の活動との関係を意識的に捉えているということの証なのだと思います。

 しかし、教会建築に当たった当初の人たちの思いは後世にまできちんと伝わるかと言うと、必ずしもそうではありません。建物が立派であればあるほど、礼拝や教会の使命について何度も再確認しないと、せっかくの器も生かされることはありません。

 きょうの聖書の個所では、エルサレムに入城されたイエス・キリストが、神殿をお清めになったと言う事件を学びます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マルコによる福音書 11章15節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

 マルコによる福音書によれば、ロバの子の背中に乗ってエルサレムに入城されたキリストは、その翌日に再びエルサレムの神殿にやってこられたことが記されています。

 当時のエルサレムの神殿はヘロデ大王の手によって再建され、いまだ建設されつつあるところでした。その建造物の大きさは目を見張るほどのものでした。特に過越祭の期間中は、多くの人々で賑わい、活気付いていました。そのような最中にイエス・キリストは神殿の境内に入り、異邦人の庭で売り買いしていた人々を追い出されたとあります。

 そもそも、そこで行われていた商売と言うのは、地方から来る者たちの便宜を図って行われていたものでした。犠牲の動物を地方からわざわざ連れてこなくても、エルサレムでふさわしい犠牲の動物を調達できれば、それは巡礼者たちの負担を軽くすることができます。あるいは神殿に献金するお金をローマの貨幣から神殿で通用するお金に両替することも、必要な働きとして当然認められるべきことです。そこで行われていることすべてが、そのシステムの生い立ちを考えると、なるほどと納得せざるを得ないものばかりです。

 しかし、そのような事柄に対してイエス・キリストは厳しく反対されました。このキリストの行動の意味をしっかりと理解しなければなりません。

 のちに、キリストは逮捕され大祭司の尋問を受けますが、そのとき証人として登場した人々は、こう証言しました。

 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、3日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」

 少なくとも神殿を中心に生活を送っていた人々にとって、イエス・キリストの取った行動は、神殿を否定し、打ち壊す行為と映ったのでしょう。両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返すほどの実力行使ですから、そう感じるのも無理はないかもしれません。しかし、キリストが求めていらっしゃったことは、神殿の否定、神殿の破壊ではありませんでした。

 イエス・キリストはこのようなことをするご自分の行動を、旧約聖書の預言書を引用して説明なさいます。それはイザヤ書56章7節からの引用です。

 そのイザヤ書の56章には主の神殿から遠ざけられていた者たちの救いに関わる預言が記されています。異邦人も宦官も主の礼拝に招かれる恵みのときが来るとイザヤは預言します。そういう文脈の中でイザヤは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と預言しているのです。

 キリスト時代のエルサレムの神殿は「すべての国の人の祈りの家」と呼ばれるには程遠いものでした。実際、商売人たちがたむろしていた異邦人の庭と呼ばれる場所には警告の立て札が立てられていて、そこにはこう記されていました。

 「いかなる他民族出身の者も聖所の周りに巡らされた柵と垣の中に入ってはならない。中で逮捕された者は、自ら死刑を招くことの責任を負う」

 異邦人は定められた区域を超えて中に入ることが、死刑をもって禁じられていたと言うことです。

 異邦人の庭で行われていた商売は礼拝のための商売でしたが、しかし、異邦人が立ち入ることのできない礼拝だったのです。

 これは、何も昔のエルサレムの神殿だけのお話ではありません。このような差別の垣根がキリストを信じる教会から本当に取り除かれているのかどうか、教会が「すべての国の人の祈りの家」となっているかどうか、そのことが問われなければなりません。教会が「祈りの家」であることは言うまでもありません。しかし、その祈りの家が、求める人すべてに開かれているかどうか、垣根を作っていないかどうか、吟味しなければなりません。

 イエス・キリストはさらに言葉を続けます。

 「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」

 今度はエレミヤ書7章11節の預言の言葉に言及されます。

 エレミヤの時代、人々は「主の神殿、主の神殿」と言いながら礼拝を守っては、「救われた」と偽りの平安に安んじていました。しかし、実際の彼らの生活は主の御心から離れ、その上、自分たちのそのような生き方を神の御心に照らして吟味することもありませんでした。「救われた」という言葉は、自分を安心させる自己欺瞞の言葉に過ぎなかったのです。このような空しい生き方に、エレミヤは警告の預言をしています。

 今、主イエス・キリストは神の神殿に集まる人々に対して、神の御心に従って自分自身の生き方を吟味するように促していらっしゃるのです。

 「寄らば大樹の陰」ということわざがありますが、その頼りになる大樹が、強盗の巣窟と化していたのでは意味がありません。神ご自身が求めていらっしゃる、神をあがめる生活を1人1人が吟味しなくてはなりません。それこそがイエス・キリストが求めていらっしゃることです。

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