おはようございます。福島教会の細田眞です。
「放蕩息子」のたとえ(ルカ15:11-32)をご存じでしょうか。このたとえ話のクライマックスは、放蕩の限りを尽くした息子が遠い国から帰ってくる場面です。待ちわびた父親は、息子への思いを押さえられず、走り寄って息子の首を抱き、接吻しました。
この熱烈な出迎えに息子は驚いてしまいます。父親から財産を使い尽くしたことを責められ、勘当されてもおかしくなかったからです。彼は道すがら考えてきたお詫びをしようとします。彼は、自分が天に対しても、父親に対しても罪を犯したことを言いかけます。もう自分は息子と呼ばれる資格がない、と言おうとしました。
ところが父親は、息子が考えてきたことを言い終わらないうちに遮ってしまいます。そしていちばん良い着物を持って来させ、さらにまるまると太った子牛を屠って、帰って来た息子のお祝いをしようと言い出したのです。父親はいなくなっていた息子が帰ってきたことが嬉しくて仕方がなかったのです。
わたしたちは思わずこのたとえ話のストーリーに引き込まれてしまいます。そして父親の喜びように驚かされてしまいます。この父親は、父なる神を表しています。神はたとえ話に登場する父親のように、わたしたちに罪の責めを負わせることなく、むしろ両手を広げて迎え入れてくださるのです。