ごきげんいかがでしょうか。草加松原教会の川杉安美です。
新約聖書ヨハネによる福音書の5章39節に、次のような言葉があります。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
当時、ユダヤ教の人たちは、聖書をどちらかというと戒律と見ていました。戒律を一生懸命守ることが宗教生活だと思っていました。それに対してイエス様は、聖書はイエス様のことを証しするものだと言われたのです。聖書が分かるということは、イエス様が分かるということです。しかも、今、生きているイエス様が分かるということです。今、生きているイエス様とお付き合いをするのがキリスト教なのです。聖書はそのための手段です。
また、ルカによる福音書24章に次のような話があります。十字架から3日目にイエス様が復活されたときのことです。それを信じられず、絶望していた二人の弟子たちが旅をしていました。途中からイエス様が一緒に歩き始めます。
しかし二人の弟子は心が暗くなっていたせいか、イエス様だと気づきません。歩きながらイエス様は、二人に聖書を説明しました。あとでそれがイエス様だったと気づいたとき、二人は言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)
私たちは聖書を通して、生きているイエス様を見いだすのです。いえ、イエス様の方が聖書を通して、私たちに語りかけておられます。