「キリストへの時間」をお聞きのあなた、いかがお過ごしでしょうか。忠海教会の唐見です。本日は1月最後の日曜日、今月のメッセージはこれで終わりです。
私の牧会する忠海教会が所属している教派、日本キリスト改革派教会の多くは、一月の最後の日曜日の午後に会員総会を行います。午前に礼拝をささげ、それに続いて話し合いを行います。前年度の教会の活動を振り返り、新年度の計画について話し合います。教会の活動は、教会ごとに異なる部分もありますが、主なものは共通していて、日曜日の礼拝、祈祷会、教会学校、男子会や女性会などです。また教会には長老、執事と呼ばれる役員がいて、その働きについての報告とともに選挙が行わることもあります。そして教会員が献げた献金による会計の報告と、新年度の予算についての話し合いがあります。
会員総会を始める前に、あるいは教会全体で話し合いが必要なとき、私は次の聖書個所をよく読みます。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒2:44-47)
今お読みした聖書個所には、生まれたばかりの教会、そして常に立ち返るべき原点としての教会があります。会員総会のときにここを読むのは、目指すべき教会について思いを共有したいからです。この記事は教会の基本的かつ重要な性格として「一つであること」を繰り返し語っています。「信者たちは皆一つになって」「毎日ひたすら心を一つにして」「一緒に食事をし」「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とある通りです。
そして、この「一つであること」は、単純に周りに合わせること、それぞれの個性を消して全体の一部に埋没することではありません。最近「同調圧力」という言葉をよく耳にするようになりましたが、本心ではそれを望んでいないのに、周りの人々の視線や評価を気にして周囲に合わせることで生じる見せかけの一致ではないのです。それとは真逆の、一人ひとりの個性が尊重され、多様性が担保された上での「ひとつであること」です。
使徒パウロはこの点について、教会を「体」にたとえて説明します。「これらすべてのことは、同じ唯一の”霊”の働きであって、”霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」(1コリ12:11-12)
教会は「教える」会と書きますけれども、これは意訳された言葉です。もとになっている言葉を直訳すると、(主なる神によって)呼び集められた人々、そしてその人々の集まり、となります。そして主なる神は、私たちに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と呼びかけてくださっているのです。
教会は本来的に、集められた人すべてが必要とされていて、それぞれに大切な役割と居場所がある共同体です。集う人は誰一人完全ではなく、みな長所と欠点を併せ持つ存在ですけれども、「互いに配慮し合って」「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」ように歩むのです(1コリ12:25-26参照)。
今月は5回メッセージをさせていただきました。これまで番組をお聞きくださったあなたに感謝します。最後に、もしまだ教会に行ったことがないとしたら、ぜひ一度足を運んでみられるようお勧めします。そこには、あなたに必要な何かがあり、また、あなた自身が必要とされるところです。