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おはようございます。南与力町教会の坂尾連太郎です。今月は「神の国」というテーマについて聖書から学んでいます。
イエス様は多くの「たとえ」を通して、神の国とはどういうものかを教えられました。今朝はその中のマルコによる福音書4章26節から29節に記されている「成長する種のたとえ」から学びたいと思います。次のようなたとえです。
「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」
このたとえは他のマタイによる福音書やルカによる福音書には記されていない、マルコによる福音書だけに記されているものです。このたとえに特徴的なのは、種が「ひとりでに」成長すると言われていることです。この「ひとりでに」という言葉は、英語の「 automatic(オートマティック)」の語源になった言葉です。意味としては「ひとりでに、自ずから、自動的に」などがあります。人が種を土に蒔いてから、夜昼寝たり起きたりしていると、種は芽を出し、成長します。しかしその人自身はどうしてそうなるのか知らない。知らない間に種は成長していくのです。
私が仕えている教会の前にもプランターに多くの花が植えられています。あるご婦人の方がいつも花を植え、お世話をしてくださっています。私も教会の2階の牧師館に住んでいますので、水をやることだけはしています。今年は教会のある方がひまわりの種をくださり、その種が植えられました。梅雨の時期で水をやらない日が続き、久しぶりにひまわりを見ると、茎が伸び、背が高くなっていることに驚いたことがありました。「いつの間にこんなに大きくなったのか。」と思いました。まさに「知らぬ間に」成長していたのです。
今日のたとえに出てくる人は種を蒔くことはしましたが、その後一生懸命お世話をしたとは語られていません。ただ「夜昼、寝起きしているうちに」「知らない間に」種は芽を出して、成長していったのです。イエス様は、神の国はそのようなものだと教えられました。では私たち人間は神の国のために何もしなくてもよい、ただ寝起きしていればよいのでしょうか。マタイやルカがこのたとえを記さなかったのは、そのように誤解されることを恐れたからかもしれません。
しかしイエス様は、神の国のために人間は何もしなくてもよいと教えられたわけではありません。この人は土に種を蒔いています。そして実が熟すと、早速、鎌を入れて収穫するのです。ですから人間も神の国のために働くのです。ここで「種を蒔く」とは「神の言葉を蒔く」ことだと考えられます(マルコ4:14参照)。私たちは神の言葉という種を蒔く。そして実がなれば収穫もするのです。しかし、その種が成長し実を結ぶのは、種を蒔いた人が知らないうちに「ひとりでに」「自ずと」起こることなのです。ここにこのたとえの強調点があります。
また種を蒔いてからすぐに実を結ぶわけではないということも教えられています。まず茎、次に穂、それから穂の中に豊かな実ができるのです。すなわち神の国の成長には段階があるということです。時間をかけて、段階を経て、神の国は豊かな実を結ぶことになります。そして「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」と言われています。神の国は歴史の中で「自ずと」成長し、最終的には豊かな実を結ぶことになるのです。
しかし現在、私たちの目には必ずしも神の国の豊かな実りが見えているわけではないかもしれません。伝道し、御言葉を伝えてもなかなかその成果が表れないということがあるかもしれません。しかし私たちは焦ったり、失望したりする必要はありません。神の国は「自ずと」成長し、段階を経て、最終的には豊かな実を結ぶことになるからです。神の国が自ずと成長し実を結ぶというのは、それが私たち人間の努力によってではなく、神ご自身の力によって確かに起こるということです。ですから私たちはそのことに信頼し、神の国に希望を持ち続けることができるのです。