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『キリストへの時間』をお聞きのあなた、おはようございます。忠海教会の唐見敏徳です。今年は1月にお話をさせていただいて、今は11月、2021年も残り2か月を切りました。時の流れは早いなあと感じます。
秋から冬へと季節が変わっていくこれからの時期、教会ではアドベント、クリスマスの準備をします。ちなみに教会暦ではアドベントあるいは待降節を1年の起点としてカウントします。今年のアドベントは28日からはじまりますが、その日までにいくつかのクリスマス行事の計画を立て、アドベントリース、クランツ、キャンドルなどを用意していきます。そのように主イエス・キリストのご降誕の備えをしながら、今年も終わりに近づいているのだなという思いが徐々に増してきます。
しかし、ご存知でしょうか。聖書の主な舞台イスラエルでは西暦とともに独自の暦が用いられています。現在のイスラエルで用いられている暦によれば、今は年の終わりではなく、すでに新しい年が始まっているのです。
ちなみに今日、2021年11月7日は、ユダヤ暦では5782年キスレヴの3日になります。5782という数字は、ユダヤ教のラビたち(※指導者たち)が計算した天地創造の日から算出されています。そしてユダヤ暦で新しい年に入ったのが西暦では2021年9月7日、ちょうど2か月前のことになります。使用する暦によって同じ日が、一方では年のはじめになり、もう一方では年の終わりになるという、ちょっと不思議な感じです。
さて聖書の中には、「時」について言及している個所がいくつかあります。たとえば旧約聖書コヘレトの言葉には次のように書かれています。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時…」(コヘレト3:1-3)。このあともまだまだ続くのですが、要するに「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。」(コヘレト3:17)ということです。
ここで重要なことは、時を定められたのは主なる神であるということです。わたしたちは、主なる神によって定められた時の中で生かされているのです。これは、わたしたちがあたかも決められたプログラム通りにしか動けない機械のような存在であるということではありません。人間には感情と意思があり、それぞれに自分の歩みを選択します。けれども、究極的には、わたしたちを含むこの世界が、主なる神の支配のもとにあるのです。
自分以外の何かによって支配されているといわれたら、それは決して嬉しくはないでしょう。辞書的な意味での支配とは、「ある地域や組織に勢力・権力を及ぼして、自分の意のままに動かせる状態に置くこと」あるいは「ある要因が人や物事に影響を及ぼして、その考えや行動を束縛すること」になります。この定義に従うなら、支配されることを望む人はいないでしょう。
しかし「神はすべての時を支配しておられる」というとき、その意味するところは全く異なります。そこにネガティブな要素はありません。それどころか、主を信じる信仰者にとって、主なる神がすべての時を支配しておられることは希望なのです。
ただただ、主は御心のままにすべての時を定められます。主よ、どうしてですか、と叫びたくなるようなこともあります。しかし、主は「わたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださる」お方であると聖書は語ります(詩編30:12参照)。
また、人間にはなぜ主がそのように定められたのかを知ることは許されていません。けれども、私たちはどんな時でも安心していいのです。なぜなら私たちを愛してくださる十字架と復活の主が、万事を益となるようにすべてを定めておられるからです。