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おはようございます。広島県竹原市にあります、忠海教会の唐見敏徳です。
主イエス・キリストが十字架刑に処せられる前、エルサレムへ向かう旅の途中のことです。イエスはご自身の死と復活について、弟子たちに話されました。ただし、そのときはまだ弟子たちは主イエスの語られた言葉の意味について正しく理解していたわけではありませんでした。
新約聖書のマルコによる福音書は、イエスの3度目の死と復活の予告、そしてエルサレム入城の間に2つのエピソードを入れています。1つ目はゼベダイの子ヤコブとヨハネの願いに関すること(マルコ10:35-45参照)、2つ目は目の不自由な物乞いバルティマイの癒しの記事(マルコ10:46-52参照)です。この2つのエピソードには共通点があります。ともに主イエスに叶えてほしい願いがあったということです。そして主イエスはそれぞれに対して、同じように「何をしてほしいのか」と問われました。
イエスの問いかけに対して、ヤコブとヨハネはこう答えました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(マルコ10:37)ここで問題になっているのは、主イエスの弟子の中での序列、あるいは名誉に関することでした。ヤコブとヨハネの二人はもともとガリラヤの漁師で、ペトロとアンデレとともに最初期から主イエスに従い、特別な12人の弟子として選ばれていました。この願いには、自分たちを特別な存在にしてほしいという野心があらわになっていて、当然、他の弟子たちの反感を引き起こしました。
一方、バルティマイの願いはこうです。「先生、目が見えるようになりたいのです」(マルコ10:51)目の見えない彼にとって切実な願いですが、これをイエスに伝えるのは簡単なことではありませんでした。その時イエスは弟子たちと大勢の群衆に取り囲まれており、盲人の物乞いがイエスに近寄ることを許さなかったからです。それでも彼は「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(マルコ10:48)と叫び続けます。ついにイエスはバルティマイを呼び寄せ、彼の願いを叶えられたのです。
聖書は私たちの願いがかなうことを教えています。たとえばヨハネによる福音書14章13-14節では、主イエスご自身の言葉として「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」とあります。しかし、バルティマイの願いはきかれましたが、ヤコブとヨハネの願いは退けられてしまいました。この違いをどのように理解したらいいのでしょうか。
このことを考えるうえで重要なことを、主イエスはヤコブとヨハネに語っています。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」(マルコ10:38)
主なる神は、確かに私たちの願いをかなえてくださるお方です。けれどもその願いがふさわしいものでないとしたら、たとえば、それが他の誰かを傷つけてしまうような願いであれば、主はそれを聞きあげてはくださらないでしょう。その理由は、まさに主が私たちの願いを聞いてくださるお方だからです。人を分け隔てなさらない主は、誰かの願いをかなえることによって、ほかの誰かが嘆き、悲しむことをよしとされるお方ではありません。ほかの弟子たちを出し抜こうとするようなヤコブとヨハネの願いは、主の目からご覧になったとき、もともと願うに値しないものでした。
主なる神は、愛する子どもに対して親が語りかけるように、あなたにも「何をしてほしいのか」と語りかけてくださいます。そして、その願いが本当にふさわしいものかどうかを問いかけておられます。さて、あなたは主に何を願いますか。