聖書を開こう 2021年8月19日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  モルデカイの栄誉(エステル10:1-3)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 およそ5ヶ月間にわたって学びを続けてきた『エステル記』もきょうで最後の回となりました。今まで学びを進める中で、この書物が持っているいくつかの特徴を見てきました。

 何よりも『エステル記』は『ルツ記』と並んで女性の名前を書物の名前としている点で、旧約聖書の他の書物とは異なっています。もちろん、書物のタイトルは後からつけられたものですから、それ自身は聖書の本文と同等の権威があるわけではありません。しかし、人々がこの書物を何の躊躇もなく女性の名前で呼んでいることは、やはり注目に値することです。

 『ルツ記』にしても、『エステル記』にしても、主人公といっても差し支えない男性も登場しています。『ルツ記』の場合にはボアズがそうですし、『エステル記』の場合にはモルデカイがそうです。特にきょう取り上げようとしている『エステル記』の最後の部分には、エステルの名前や業績について一言も触れられません。この書物全体がモルデカイの功績を称えるような結び方で閉じられます。

 それにもかかわらず、『エステル記』は決して『モルデカイ記』とは呼ばれませんでした。控えめでありながら意志の強い女性エステルを、誰もが疑うことなくこの書物の主人公とみなして来ました。

 もう一つの特徴は、『雅歌』と並んで、『エステル記』には「神」の名前が一度も登場しませんでした。この世の歴史書や歴史物語と少しも変りないタッチで淡々と物語が展開していきます。唯一宗教的な行動と思われるのは、モルデカイから自分たちの民族に差し迫った危機を知らされて、自分が立ち上がらなければならないと決断を迫られたときに、エステルが断食をしたことです。それ以外で、この書物に宗教的な要素を見出すことはほとんど不可能です。この書物の背景には、そこに生きる人々の信仰があるということを前提として読むのでなければ、『エステル記』が聖書の中に収められている意味を見失ってしまいます。この書物は神について無言ですが、しかし、歴史の背後に働いてくださっている神の摂理に対する信仰を前提として描かれているということです。そうでなければ、正典として受け入れられることはなかったことでしょう。

 他にも『エステル記』には特徴があります。『ルツ記』もそうですが、異邦人との結婚の問題が出てきます。ルツの場合にはルツ自身が異邦人でした。それも、律法の書によれば、10代目になっても主の会衆には加わることができないとされていたモアブ人でした(申命記23:4)。もっともルツの場合には、姑のナオミを通して信仰を与えられていましたので、まったくの異教徒というのとは違います。

 しかし、『エステル記』の場合には、エステル自身はまことの神を信じるユダヤ人でしたが、結婚相手であるクセルクセス王はそうではありませんでした。モーセの律法を厳格に適用するなら、異教徒と結婚するなどということは考えられないことです。しかし、このことも神の摂理的な導きの中で起こったこととして、淡々と描かれています。ただ、このことを現代に生きるクリスチャンにどう適用するかは簡単ではありません。

 そして、この『エステル記』が扱っているプリムの祭り自体も、律法が命じる祭りではありません。後から生まれた祭りです。そういう意味で、『エステル記』は律法に対して、ある程度の自由を持った書物のように感じられます。

 ちなみに。後から生まれた祭りには、「神殿奉献記念祭」がありますが(ヨハネ10:22)、その起原については、旧約聖書の中には記されていません。旧約聖書外典の『マカバイ記一』4章36節以下に記された出来事がその起原とされています。「宮清めの祭り」とか「ハヌカの祭り」とも呼ばれているのがそれです。プリムの祭りもハヌカの祭りも、律法よりも後から生まれた祭りという意味では同じですが、一方は旧約聖書の中にその起原が記され、他方は記されていない祭りです。しかし反対に、ハヌカの祭りはヨハネ福音書に言及されますが、プリムの祭りは新約聖書の中に取り上げられてはいません。

 さて、振り返りが長くなってしまいましたが、『エステル記』最後の学びを始めたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 エステル記 10章1節〜3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 クセルクセス王は全国と海の島々に税を課した。王が権威をもって勇敢に遂行したすべての事業と、またその王が高めてモルデカイに与えた栄誉の詳細は、『メディアとペルシアの王の年代記』に書き記されている。ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王に次ぐ地位についたからである。ユダヤ人には仰がれ、多くの兄弟たちには愛されて、彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。

 今まで学んできた『エステル記』を結ぶ言葉は、意外にも王妃エステルについては一言も触れられていません。なすべき務めをなしたエステルは、いつの間にか政治の表舞台からは身を引いてしまいます。自分が身を挺して挑まなければならないときには、果敢に立ち上がったエステルでしたが、しかし、その役割を終えるときには、王妃としての身分に立ち戻ります。これを機会に権勢を広げようなどという野心は少しもなかったようです。

 『エステル記』の結びの言葉には、クセルクセス王が課した税金について記されます。何故、王が課した税について『エステル記』がわざわざ言及しなければならなかったのか、その理由は定かではありません。これを次の節に記される「王が権威をもって勇敢に遂行したすべての事業」の一つとして挙げているのだとすると、そのことはモルデカイの功績と切り離して考えることはできません。

 そもそも課税というのは、国の財政にとって重要な事柄です。しかし、徴収される民の側から見れば、できるだけ収めたくないものかもしれません。そうした対立が予想される事業を全国と地中海に浮かぶ島々にいたるまで、広大な領土全域に及ぼすことは、決して簡単なことではありません。王ひとりでそれを成し遂げたとは考えられません。そこには有能な家臣たちがおり、手足となって働く人々がいたはずです。

 そして、その中でもモルデカイの地位は不動のものとなりました。クセルクセス王に次ぐ地位にまでついたと記される通りです。

 そのモルデカイについて、『エステル記』はこう記して書を閉じます。

 「ユダヤ人には仰がれ、多くの兄弟たちには愛されて、彼はその民の幸福を追い求め、そのすべての子孫に平和を約束した。」

 モルデカイがただ単にペルシア王に気に入られたというばかりか、ユダヤ人に敬愛され、民の幸福と平和ために尽くした様子がそこには記されています。

 こうして神は異国の地に散在するユダヤ人たちを摂理的に守ってくださり、やがて起こされるメシアの到来の時へと備えてくださったのです。

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