ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
神のことばである聖書を重んじる、という伝統はプロテスタント教会の大きな特徴です。聖書があらゆる国の言語に加速的に翻訳され始めたのも、16世紀の宗教改革以降の出来事です。もちろん、それを可能にしたのは、グーテンベルクによる活版印刷の発明という技術的な進歩も一因しています。しかし、印刷技術があっても、宗教改革のモットーの一つである「聖書のみ」という主張がなければ、ここまで大きな聖書翻訳事業は進まなかったことでしょう。
もちろん、聖書を重んじる伝統はユダヤ教の中にもありました。そうでなければ、これほどに正確な写本や古代語の翻訳を残すことはなかったでしょう。同様にローマ・カトリック教会も聖書を正典として重んじてきました。何よりもラテン語ヘの翻訳はその表れです。ただ、プロテスタント教会と違うのは、「聖書のみ」の原則ではなく、それぞれ受け継いできた「伝統」をも聖書と並んで重んじてきたという点です。
ところで、キリスト教会が「聖書」と呼ぶものと、ユダヤ教徒が正典として持っている「聖書」とは、その範囲が異なっています。キリスト教会はユダヤ教徒たちが正典として持っている「聖書」を「旧約聖書」と呼び、「新約聖書」と呼ばれる27巻を加えて、全部で66巻を「聖書」と呼んでいます。
しかし、違いはただ収められている書物の数が違うというばかりではありません。聖書に対する理解も違います。イエス・キリストは『ヨハネによる福音書』の中でユダヤ人たちにこうおっしゃいました。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)。
もちろん、この場合の「聖書」とは旧約聖書を指しています。旧約聖書を通して神が語られてきたことは、結局のところ、神の子キリストについてであるということです。その『ヨハネによる福音書』は、イエス・キリストこそまことの命であることを証しています(ヨハネ11:25; 14:6; 17:2など)。旧約聖書が証しているイエス・キリストを通してこそ永遠の命にあずかることができるということです。
さらに、新約聖書が描く神の子キリストは、神のことばそのものであり(ヨハネ1:1)、今学んでいる『ヘブライ人への手紙』によれば、神の究極的な啓示です。そういう意味で、聖書を読むということは、他でもなく、この神の言葉であるキリストに聴くことへとつながって行きます。もし、キリストが脇へ行ってしまうような聖書の読み方をしているとすれば、それは、神の言葉に聴いているとは言えません。
きょうも前置きが長くなってしまいましたが、御子イエス・キリストに聴く大切さを『ヘブライ人ヘの手紙』から学びたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 2章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
前回の学びでは、御子イエス・キリストが天使たちよりもはるかにまさった存在であることを、旧約聖書の証言を通して学びました。神の子イエス・キリストと天使とどっちが上かを議論することは、あまりにも答えが明白で、今を生きるクリスチャンにとっては退屈な議論のように感じられるかもしれません。そもそも、この二つを対比したり、優劣をつけるという必要性を感じないというのが正直な思いではないでしょうか。だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。