聖書を開こう 2022年1月6日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  大祭司の資格(ヘブライ5:1-4)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストがわたしたちのために成し遂げてくださった救いの御業についてよりよく理解するためには、旧約聖書の規定についての知識と理解が欠かせません。

 「ヘブライ人への手紙」はそうした知識を前提に書かれているために、今のわたしたちにはとっつきにくい手紙であるかもしれません。しかし、逆にこの手紙を学ぶことで、旧約聖書の規定が何を目指していたかをより明確に知ることができます。また、なぜキリスト教会はもはや旧約聖書に規定された儀式を必要としなくなったのかも、この手紙を読んで初めて理解することができます。

 現代のわたしたちにとって少し退屈に思われる議論がこの手紙には続きますが、今少し辛抱してこの手紙の学びにお付き合いください。また、興味のある方はぜひこれを機会に、「モーセ五書」と呼ばれる「創世記」から「申命記」にいたるまでの旧約聖書の五つの書物に目を通してみてください。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 5章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。

 きょうの個所には、旧約聖書に規定されている大祭司について取り上げられています。とは言っても、旧約聖書に規定されている大祭司に関する規定がそのまま詳細に引用されるわけではありません。「ヘブライ人への手紙」の著者が大祭司について取り上げるのは、イエス・キリストと旧約聖書に規定されている大祭司とを比較しながら、その共通点と相違点を明らかにするためです。

 従って、今日取り上げた個所には、アロンの家系から選ばれる大祭司の資格と職務について、イエス・キリストとの比較のポイントがわかりやすいように簡潔に述べられています。

 まず大祭司は、選ばれてその職に就くものです。「選ばれて」と言われるポイントは、自分で勝手になることができないということが一つ、もう一つは、その選びは、人間が選ぶのではなく神からの召しによって選ばれるということがもう一つの大切なポイントです。

 イスラエルの歴史の中には、人間的な工作で大祭司の地位を手に入れた者もいました。例えば、紀元前2世紀のシリア王アンティオコス四世は、ヤソンとメネラウスを政治的な意図から大祭司に任命したことがありました。この手紙の著者にとって、そのような大祭司は大祭司としての資格がそもそもありません。神によって選ばれ、召された者だけが正当な大祭司です。神によって選ばれ、任命されたという点では、イエス・キリストはまさに大祭司にふさわしい資格を持っていました。この点については、来週取り上げる箇所で詳しく論じられます。

 そして、その選びの対象は「人間の中から」と言われています。これは当たり前のことのように聞こえますが、大切なポイントです。大祭司の務めは、神の民のために、神の民を代表して行われるものです。人間以外のものは神の民の代表となることはできません。さらに、人間であるべき理由は、民の代表として、人間としての民の弱さを理解できる必要があったからです。

 この点についても、イエス・キリストは神の子でありながら、まことの人でもありましたから、大祭司として適格性を少しも欠くことがありません。逆にまた、それはなぜキリストはまことの人間でなければならなかったのかを説明しています。

 ただし、人間の持っている弱さという点では、アロンに代表される人間の大祭司と共通する部分と相違する部分がありました。その点については、すでにこの手紙の中で一度ならず触れられてきました。

 この手紙の2章17節で「イエスは、…すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」と述べて、弱さを含めてすべての点でわたしたちと同じ人間でした。4章15節で述べられているとおり、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」お方でした。

 罪を犯されなかったという点では、アロンに代表される人間の大祭司とは大きく違う点です。しかし、それ以外の点では、わたしたちと同じような試練を経験しているのですから、弱さを思いやることができないようなお方ではありません。

 さて、大祭司が任命されたその目的は、罪のための供え物やいけにえを献げるためでした。この点についてもアロンに代表される人間の大祭司と共通する部分と相違する部分があります。

 神の民を代表し、神の民のために罪のための犠牲を献げるという点では、キリストもまたまさにそのためにやってこられたお方です。

 しかし、アロンに代表される人間の大祭司には、キリストと大きく違う点がありました。旧約聖書の「レビ記」16章に記された贖罪日の規定によれば、アロンは自分の罪の贖罪のために犠牲を携えていかなければなりませんでした。「ヘブライ人ヘの手紙」5章3節が述べていることは、まさにこの贖罪日の規定のことです。

 イエス・キリストは罪を犯すことはありませんでしたから、自分のために罪を贖う犠牲を必要としていませんでした。しかし、アロンに代表される人間の大祭司は、自分が犯した罪のために、まず、自分自身が罪を贖うための動物犠牲を献げる必要があったのです。

 さらに言えば、アロンに代表される人間の大祭司は年に一度の贖罪日ごとに、繰り返し、罪を贖う犠牲を自分自身と民のために献げる必要がありました。このことに関しては、この手紙の9章以下で詳しく論じられています。

 いずれにしても「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されて」いるという点では、アロンもキリストもまさに大祭司の資格をもってその職務に任じられていることは、疑いようもありません。しかし、この手紙が明らかにしようとしていることは、単にキリストはアロンと同じ大祭司であったということではありません。これから先に展開される内容は、キリストこそアロンに勝る大祭司であること、いえ、キリスト以前に立てられた大祭司の職務は、まことの大祭司であるキリストを指し示し、キリストにおいてこそ、大祭司の職務が全うされたということです。

 アロンに代表される人間の大祭司が、年に一度、繰り返し罪の贖罪のために犠牲を携えて行かなければならないことは、この職務が不完全なものであることを示しています。ただ一度、動物の犠牲ではなく、ご自分の体を罪の贖いの犠牲として十字架の上にお献げになったイエス・キリストこそ、まことの大祭司にふさわしいお方なのです。

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