メッセージ: 約束を受け継ぐわたしたち(ヘブライ6:16-20)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「希望」は、生きていく上でとても大切です。どんな些細な希望であっても、その希望を持つことで、前に進む力を与えられます。たとえそれが、「きょう家に帰ったら録画しておいたドラマを見ることができる」とか「今度の休暇には山に行くことができる」とか、そんな小さな希望でも、その希望が実現するまでのわずかな期間を頑張って過ごすことができます。さらにはもっと大きな将来の夢を描くことで、目の前の困難を乗り越えていく力になります。
そうであるとするなら、信仰生活にとっての希望は、なおさら大きな力を持つことは言うまでもありません。その場合、何に希望を置くのかということは、とても大切な問題です。
「ヘブライ人への手紙」では、この手紙を読む人たちが、しっかりと神の約束に踏みとどまることを願っています。試練や誘惑を乗り越えて、神が約束した救いの完成にあずかる者となることこそ、この手紙の著者が願っていることです。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 6章16節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
今、わたしたちは「ヘブライ人への手紙」から学びを続けていますが、細かく区切って読んでいるために、かえってわかりにくくなっているかもしれません。確かに手紙を読むにしても、小説を読むにしても、何カ月もかけて読む人はいません。一気に読んで、何が言いたいかを把握するものです。
そういう意味では、番組の進捗状況にかかわりなく、先にざっと手紙全体に目を通していただくと、この手紙に対する理解がよりいっそう深まると思います。ただ、そうはいっても、なかなか時間が取れなかったり、書かれている事柄が、今生きている私たちにはピンとこない内容も多く、途中で投げ出したくなる気持ちも理解できます。
そこで、この番組ではできるだけ、枝葉末節な議論は避けて、前後の文脈を明らかにしながら、著者のメッセージを大づかみに聞き取るように努めています。
さて、少し前にさかのぼりますが、この手紙の中では、神の約束した安息に入れなかった旧約の民の失敗が描かれていました。そのことを手紙に描く意図は、一つには神の約束が今を生きるこの手紙の読者たちに開かれているという希望を与えること、もう一つには、かつての旧約の民がその約束から離れていってしまったように、その過ちを繰り返さないためです。
しかし、試練と罪への誘惑は、かつての時代を生きる旧約の民にとっても、今を生きる信仰者にとっても避けて通ることはできません。けれども、わたしたちにとって旧約時代の民よりも有利なことは、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(ヘブライ4:14)という点です。
そこで「ヘブライ人への手紙」の著者は、少しの間、この「大祭司」についての議論を手紙の中で展開しました。それが4章14節から5章11節にかけての議論でした。
それに続いて、再び、読者ヘの警告と励ましの言葉が記されます。きょう取り上げているのは、まさに励ましの言葉の部分です。読者に対する警告の部分では、厳しいことが語られましたが、それは決して読者の信仰をくじくためではありませんでした。むしろ、この手紙の著者は、イエス・キリストを信じる信仰の確かさを確信し、この手紙の読者たちが、約束されたものを確実に手に入れることを願っています。
そこで前回取り上げた個所では、アブラハムに対する神の約束の確かさと、それを信仰をもって受けとめたアブラハムの模範が示されました。今回はそのアブラハムの事例が、今を生きる読者たちに適用されます。
きょう取り上げた個所で、このアブラハムの事例は、「約束されたものを受け継ぐ人々」(17節)に対する保証であると言われます。アブラハムに起こったことは、アブラハム一代で終わっているのではなく、アブラハムに約束されたものを受け継ぐ人たち、つまり、信仰によって生きる人たちにも受け継がれているということです。
手紙の著者は「約束されたものを受け継ぐ人々」と第三者的な表現を使っていますが、そのすぐ後で、その人々とは、「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたち」のことであると明らかにしています。
では先週取り上げたアブラハムの事例で大切なポイントとは何だったでしょうか。それは、アブラハムに対する神の約束の確実性と不変性でした。神の約束が確実であることは、神が真実なお方であるということに基づいています。
さらに誓いの言葉を加えることで、神は約束が変わることのないものであることを保証されました。本来、人間とは違って神は真実なお方でありますから、誓う必要などありません。また、人間とは違って、自分自身が最上のお方であるために、自分自身を指して誓うよりほかありません。そうであるにもかかわらず、神があえて誓いの言葉を加えられたのは、この約束が変わることのないものであることを保証し、そのことを人間に示すためでした。
この神の約束の確実性と不変性の二つの事柄は、今の時代でも変わることはありません。そして、この二つの事柄はわたしたちの希望と深くつながっています。
この希望のことを、著者は「魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの」(19節)と表現します。船にとって錨は、波風が船を襲ってもその場に船をとどめておく役割を果たします。それと同じように、希望は、人生の嵐が襲うときにも、神の約束にわたしたちをつなぎとめます。
と同時に、この「錨」のイメージに加えて、「至聖所の垂れ幕の内側に入って行くもの」というイメージをこの手紙の著者は加えます。全く違うイメージをここに持ち出した理由は、「錨」というものが持つ「不動性」のイメージに加えて、神の約束が「進展性」を持ったものであることを表現したかったからではないかと思われます。そして、神殿での儀式に慣れ親しんできたヘブライ人読者にとっては、こちらのイメージの方がなじみ深かったと思われます。
聖所と至聖所を隔てる幕を通ることができるのは、年にただ一度、大祭司にだけ許されていたことでした。しかし、イエスは、まことの大祭司として、またわたしたちの先駆者として、至聖所の垂れ幕の内側、すなわち、それが象徴する神のご臨在のもとへと行かれ、今もそこにおられます。
こうした確かな約束に基づく希望が与えられているのですから、アブラハムが神の約束に信仰をもって応えていったように、先駆者であり大祭司であるイエス・キリストをいただいているわたしたちは、いっそう信仰をもって神の約束に従って行くことができるのです。