聖書を開こう 2022年2月24日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  メルキゼデクの偉大さ(ヘブライ7:4-10)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「ヘブライ人への手紙」を読んでいて難しいと感じる点については、今まで何度かこの番組でも話題にしたことがあります。今、取り上げている個所も、今の時代の読者にとっては難しく感じられるのではないかと思います。その理由は、取り上げられている話題が今の時代の日常では耳にすることが決してない話題であること。たとえ、描かれている事柄について、たとえば祭司制度や10分の1の献げものについての知識を聖書を読んで得たとしても、ここで展開されるロジックが、わたしたちには予想できないようなロジックであるために、ついていくのがなかなか難しく感じられるからです。

 このような個所を読むときには忍耐が必要ですが、ただ何のためにこのような議論をしているのか、その点だけはしっかりと捉える必要があると思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 7章4節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から10分の1を献げたのです。ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から10分の1を取るように、律法によって命じられています。それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから10分の1を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。更に、一方では、死ぬはずの人間が10分の1を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。そこで、言ってみれば、10分の1を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して10分の1を納めたことになります。なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。

 先週から取り上げている7章には、旧約聖書のアブラハムの時代に登場するメルキゼデクという人物のことが取り上げられています。この人物について「ヘブライ人への手紙」の著者が熱を込めて取り上げるのは、メルキゼデクという人物が様々な意味で特殊な人物だったからです。

 しかし、この手紙の著者がこの人物に着目し、こうまでしてその卓越した点を論じるのは、メルキゼデクその人について注目を集めたいからではありません。そうではなく、この人物と神の子イエス・キリストとの類似性を見出し、メルキゼデクがキリストを指し示すひな形であったことを示すためでした。そのことを示すことで、イエス・キリストが決して旧約聖書の枠からはみ出したメシアではなく、旧約聖書とつながりがある正当性をもったメシアであること、それと同時に旧約時代を継承しつつもそれを超えるお方であることを論証するためでした。

 そのことを念頭にきょう取り上げた個所を読む必要があります。ここではメルキゼデクの偉大さについて三つの点があげられています。

 その一つは、族長であるアブラハムがメルキゼデクに対して戦利品の10分の1を献げたという事実です。

 当然、ユダヤ人にとっては、アブラハムの偉大さは論じる必要もないほどに自明のことでした。なぜなら、アブラハムは「神の友」と呼ばれるほどで、神から直接の召しを受けて、後に神の民とされる子孫たちの父となったからです。

 アブラハムを偉大な人物とする考えは、イエス・キリストが来られた時代にもユダヤ人の中にしっかりと根づいていました。例えば、ヨハネ福音書の8章53節には、「わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか」と発言して、キリストの言葉に耳を傾けようとしないユダヤ人の姿が描かれています。

 そこで、この手紙では、キリストのひな形ともいうべきメルキゼデクが、アブラハムよりも偉大であったことを示す証拠を聖書の中に見出します。その一つが戦利品の10分の1を献げたという事実です。

 この関係性から見ても、メルキゼデクがアブラハムよりも優位に立っていることは明らかです。しかし、この手紙の著者が着目しているのは、メルキゼデクとアブラハムの個人間の関係だけではありません。それは、単にアブラハム個人に対するメルキゼデク個人の優位性ではなく、後に定められる祭司制度に対するメルキゼデクの優位性の問題も含まれています。

 旧約聖書によれば、神の約束がアブラハム、イサク、ヤコブと受け継がれ、やがてヤコブからイスラエルの12部族が生まれます。そしてその12部族の中から、神殿での勤めを果たすレビ族が選ばれました。彼らは他の部族から10分の1を受け取とる特権を与えられていました。

 ユダヤ人の考えによれば、後に生まれる子孫は、すでにアブラハムの中に存在していると思われていましたから、いわば、アブラハムがメルキゼデクにささげた10分の1は、アブラハムを代表として、後の祭司を含む全イスラエル人がメルキゼデクに対して献げたものとみなされるというのです。

 つまり、この出来事は単なる個人の間での出来事ではなく、もっと広がりをもった事柄を指し示していると解釈されるのです。

 アブラハムに対するメルキゼデクの優位性の第二の証拠は、メルキゼデクがアブラハムを祝福したという事実に見出されます。なぜなら、祝福は常に上の者が下の者を祝福するからです。確かに創世記に記される族長たちの祝福の場面も、父が子らを祝福するのであって、子らが父を祝福するのではありませんでした。従って、メルキゼデクがアブラハムを祝福した事実そのものが、アブラハムに対するメルキゼデクの優位性を物語っています。このことは、ユダヤ人たちにとっては自明のことであったはずです。もちろん、この第二の点も、単にアブラハムとメルキゼデク個人間の問題ではなく、広がりをもって理解されていたことは想像するに難くありません。

 アブラハムに対する優位性を示す第三の点は、死ぬはずの人間と永遠に生き続ける者との対比です。アブラハムの末裔から立てられた祭司たちは、皆、やがては死に、後継者たちがその後を引き継ぎました。しかし、前回取り上げた個所でも強調されていた通り、メルキゼデクには死の記録がありません。そういう意味で、メルキゼデクは永遠の大祭司と呼ばれています。しかし、律法のものとに立てられた祭司たちは、そうではありませんでした。

 10分の1の供え物に関していえば、アブラハムの子孫から生まれた者たちは、死ぬべき祭司たちに10分の1を献げましたが、メルキゼデクに献げられた10分の1の献げものは、永遠に生き続ける者に対する献げものであったということです。この対比も見過ごすことができない大きな違いです。

 これら三つのことが指し示しているのは、「ヘブライ人への手紙」の著者にとって、キリストへとつながる布石であったということです。アブラハムよりも偉大なメルキゼデクを正しく理解するときに、偉大な永遠の大祭司であるキリストへと思いが導かれていくのです。

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