ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
宗教改革時代には、信仰教育のために様々な信仰問答書が作成されました。聖書の中心的な教えを問答の形式でまとめた書物です。その一つに『ハイデルベルク信仰問答』と呼ばれる問答書があります。この問答書は「あなたのただ一つの慰めは何か」という問いかけから始まります。ここで問われているのは、生きるにも死ぬにも励ましとなるような慰めです。そして、その答えは、わたしが、自分自身のものではなく、救い主イエス・キリストのものであることだと断言します。
しかし、そういわれてピンとくる人はほとんどいないかもしれません。そう確信するためには知らなければならない聖書の教えがあるからです。まず、自分自身の罪とその悲惨さを知らなければなりません。いちど自分の罪とその悲惨さとを知った者にとって魂の平安となるような慰めは一つしかありません。それは、わたしがわたし自身のものではなく、救い主イエス・キリストのものであること、そして死さえもこの関係を断ち切ることができないということです。
では、この救い主とはどんなお方なのか、どのようにしてわたしを罪と悲惨さから救ってくださるのか、聖書の教えに沿って問答は続きます。なぜ神は罪の償いを求めておられるのか、なぜ、わたしたち自身が償いを果たすことができないのか、その償いはなぜ動物の犠牲では不十分なのか、と問い続ける中で、まことの救い主がどのようなお方で、どのようにわたしたちを救ってくださるのかが明らかにされていきます。
こうした問答書の展開は、聖書のあちこちの記された大切な教えにそってまとめられています。その中で「ヘブライ人への手紙」も頻繁に証拠聖句として引用されています。
今学んでいる個所では特に古い契約のもとでの動物犠牲がなぜ不十分であるのか、そして、新しい契約のもとでは、それがどのように完全なものとなったのかが、扱われています。神はそのように完全な救い主を新しい契約のもとでお遣わしになったのです。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 10章5節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
前回の学びでは、古い契約のもとで行われていた祭儀が実体そのものではなく、実体にできる影のようなものであるということを学びました。確かに祭儀で献げられる動物犠牲は影のような存在にすぎませんでしたが、しかし、やがて現れる実体を指し示しているという点では決して無意味なものではありませんでした。それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。