【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。愛媛県松山市にある松山教会の久保浩文です。
2月の第2日曜日の朝です。今朝のお目覚めはいかがでしょうか。
新しい年2024年を迎えて、早ひと月が過ぎました。「一年の計は元旦にあり」と言われます。ラジオをお聴きの皆様は、この一年をどのような計画もって始められたでしょうか。私達は、それぞれの年代において、様々な夢や希望を抱いて生きています。いろんな可能性に挑戦し、チャレンジを続けることは、私達が生きていく上での活力のもとになっていることも事実です。
私達は、仕事や勉学においても、スポーツの世界においても、何事も一つ成功し上昇気流に乗ると、そこで満足するというよりも、さらに上を目指して努力を重ねて、今よりももっと高い成果をあげたいと思うのです。それはもちろん、素晴らしいことです。ですが、もっともっとと思い続けることには、別の一面もあるのではないでしょうか。
ドストエフスキーと並んで、ロシア文学の巨匠の一人と呼ばれたトルストイは、「戦争と平和」「復活」などの大作だけでなく、短編も著し、後世まで文学界だけでなく社会的にも、重要な影響を残しました。トルストイの短編で良く知られているのは、「愛のあるところに神はまします」、別名「くつやのマルティン」ですが、その他に、「人間には多くの土地が入り用か」という物語があります。「人にはどれほどの土地がいるか」という題で絵本にもなっています。
主人公のパホームは、あることがきっかけで、僅かながらも自分の土地を持つことが出来ました。勤勉な彼は、その土地に小麦の種を蒔き、大きな収穫を上げました。しかし、彼は、更にたくさんの収穫を上げるために、もっと広い土地を手に入れたいと思いました。
ある時パホームは、ある商人から「パシキール人の住む村では、一日分千ルーブリで土地を購入することができる」という話を聞き付けます。それは、「一日かかって歩き回っただけの土地があなたのものになる」、つまり「スコップで曲がり角に穴を掘り、芝を投げ込んで、目印をつけておく。そして、日が沈む前に最初に出発したところに戻って来る。ぐるっと回ったところが自分のものになる。」という条件でした。
パホームは、日の出と共にスコップを肩に担いで、目前に広がる広大な草原を目指して出発しました。彼は、食事を摂る時間も惜しんで、もっと遠くへ、もっともっと、と足を延ばしました。しかし彼は、日没までに帰らなければいけないという約束を忘れていました。あまりにも遠くに来てしまい、「しまった」と気が付いた時には、既に太陽は沈みかけていました。
彼は必死で、やっとの思いで村人たちの待つところに帰り着きました。村長から「こんな広い土地が全部あなたのものですぞ」と言われた途端、彼は、前のめりにばったりと倒れました。村人が彼を抱き起こした時には、もう息の通わぬ人間となっていました。下男は、スコップでパホームのために、ちょうど足から頭まで入るように、かっきり2メートルの穴を掘って、その遺体を埋葬しました。
聖書には、主イエスの語られた「愚かな金持ちのたとえ」(ルカ12:13-21参照)があります。ある金持ちの畑が豊作でした。彼は、作物をしまっておく場所がないので、もっと大きい蔵を建て、穀物や財産をしまい込むことを考えました。彼は、「これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(ルカ12:19)と自分に言い聞かせました。すると神様は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物はいったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)と言われました。意外な結末です。
主イエスは、「富を天に積みなさい」(ルカ12:33)、「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ12:34)と言われました。私達にとって、本当に大切なものは何でしょうか。あなたの心はどこにあるでしょうか。地上の宝は、永久ではなく、何時かは色褪せ、朽ち果てます。私達は、命の主、人生を支配しておられる神を、心の中心に据えて生きる者でありたいと思います。