【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。南与力町教会の坂尾連太郎です。
先週の放送では、私がクリスチャンホームに生まれながら、中学高校時代は教会から離れていたこと、しかし、大学生になって教会に戻り、信仰告白をしたことをお話しました。今朝は、私がどのようにして牧師として献身する決意をしたのか、お話させていただきたいと思います。
教会に戻ってきて知らされたことは、現在、教会に若い人たちが少なくなっていること、また、牧師が不足しているということでした。せっかくイエス・キリストが私たちの救いのために死んでくださったのに、その福音を宣べ伝える牧師がいないということは、とても悲しいことであり、神様も悲しんでおられるのではないか、と思いました。そして、神様に働き手を送ってくださるよう祈るようになりました。
また、教会から離れていた自分が、この若い時に教会に戻り、信仰を与えられたことの意味を考えるようになりました。もしかしたら、自分が牧師になることを神様は望んでおられるのかもしれない。そのように考え、神様の御心を求めて祈るようになっていました。
そして献身の思いが与えられていったのですが、本当に自分でいいのか、このように未熟な自分が牧師になることが、神様の御心なのか、確信が持てずにいました。そのような時に与えられた御言葉が、ローマの信徒への手紙12章1節でした。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
私にとって、自分がただ神様の憐れみによって、イエス・キリストの十字架によって救われたということは、確かなことでした。そして、そうであるならば、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるように、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と勧められています。この御言葉を読んだ時に、私は牧師として献身する決意が与えられました。
確かに、今の自分は、未熟で欠けの多いものである。しかし、そんな自分が神様の憐れみによって救われ、今、牧師として献身する思いも与えられている。そうであるならば、今、自分の体を神様に献げよう。先のことはわからないけれども、とにかく、今神学校に入ろう。そのような決意が与えられたのでした。そして、私は神学校を卒業し、南与力町教会の牧師となりました。いろんな欠けがありながらも、神様と教会の方々の憐れみによって、10年間、牧師として働かせていただきました。ただただ感謝であります。
「献身」というのは、なにも牧師になることだけではありません。それぞれの仕方で、自分の体を神様に喜ばれる生けるいけにえとして献げていく。そのことを、神様は喜んでくださいます。逆に、牧師になったからといって、いつも神様に喜ばれる生き方ができているかと言えば、必ずしもそうではありません。私のうちにはなお罪があり、神様の御心にかなわないことも行ってしまうのです。
では、どうすればよいのでしょうか。12章2節で、パウロは次のように語っています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
私たちは、この世に倣うのではなくて、神様によって心を新たにされ、変えていただく必要があります。そうしてはじめて、何が神の御心であり、神に喜ばれるのかをわきまえることができるようになるのです。私たちはこれからも、神様によって変えられながら、御心を悟り、従い、そうして、自分の体を神様に喜ばれるいけにえとしてささげながら、生きていきたいと思います。