メッセージ: 人間をとる漁師にしよう(マタイ4:18-22)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
クリスチャンに向かって「あなたはいつイエス・キリストの弟子になりましたか」という質問をしたとします。あるいは、あなたが既にキリスト教会の会員であるとするなら、あなたはいつキリストの弟子となりましたか。
この質問に即座に答えられる人は案外少ないのではないかと思います。おそらく、その質問に対して、こう聞き返されると思います。「それは、いつ洗礼を受けたかという意味ですか。それとも、洗礼を受けようと決心した日のことですか」。
キリスト教会の会員であれば、いつ洗礼を受けたかという質問には、誰もが明確な答えを持っていることでしょう。洗礼を受ける決心をした日のことは、記憶があいまいな人もいるかも知れません。では、洗礼を受けた日が、あなたがキリストの弟子となった日ですか、と質問するなら、おそらく急に答えが鈍くなってしまうように思います。ある人は「洗礼は受けましたが、まだキリストの弟子とは胸を張って言えません」と正直に答える人もいるでしょう。ただそうであったとしても、キリストを意図的に棄て去っていない限り、やはりその人はキリストの弟子であることには違いありません。
これは、キリストの十二弟子に同じ質問をしたとしても、同じような結果になると思います。そもそも十二弟子が洗礼を受けたということを明確に語っている個所はありません。弟子の何人かは洗礼者ヨハネの弟子でしたから、洗礼者ヨハネの洗礼は受けていたことは推測できます(ヨハネ1:35-40)。そして、いわゆるキリスト教会の洗礼が制定されたのは、キリストが復活されてから後のことですから(マタイ28:19)、キリスト教の洗礼という意味では、彼らは洗礼を受ける前からキリストの弟子でした。ペトロに至っては、きょう取り上げるマタイによる福音書とヨハネによる福音書とでは、キリストに出会うタイミングもキリストの後についていくタイミングも違うように描かれています。もしペトロが今生きていて、一体どのタイミングで弟子となったのかと尋ねたなら、「どちらかひとつになど、絞り切れない」というかもしれません。ひょっとしたら、そのどちらでもなく、「復活のキリストに出会ってから、キリストの弟子としての自覚が今まで以上にはっきりした」と答えるかもしれません。
そういう意味で、きょうこれから取り上げようとする記事が、ペトロやアンデレたちがキリストの弟子となる決定的瞬間というようにとらえる必要はないと思われます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 4章18節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、2人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。2人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の2人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この2人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
この個所を読むときに、ついつい勝手なイメージで、ここに登場する4人の漁師たちは、初対面の人から声をかけられて、すべてを捨てて従っていったと思い込みがちです。
少なくともペトロについていえば、冒頭でも触れた通り、キリストとの出会いは、一度きりではありません。同じ場面を描いたルカによる福音書の5章も、既に4章でイエス・キリストはペトロ(シモン)の家を訪問してしゅうとめの熱を癒しておられます。
福音書にはイエス・キリストの活動のすべてがつぶさに記されているわけではありません。既に神の国の福音を宣べ伝え始めたイエス・キリストの話や御業をこの4人が見聞きしていたことは前提として十分に考えられます。ですから、この個所を根拠に、何も知らなくてもわからなくても、何もかも捨ててキリストに従うことが大切だと理解するのは危険です。
しかし、他方では、この時の弟子たちが、キリストについての十分な情報を得て、すべてを理解したうえで従ったとも考えられません。実際、この福音書に描かれる弟子たちの姿は、イエス・キリストの教えを理解できずに、しばしばキリストを失望させる弟子たちでした。そういう意味では、弟子となるには最初から完全であることが求められているわけではありません。何か心に触れるものがあれば、そして従うようにと背中を押される思いがするなら、それだけで十分です。
それよりもわたしたちが目を向けなければならないもっと大切なことがあります。それは彼らが自分からキリストの弟子となりたいと立候補したわけではないということです。この記事を読むときに、ついついわたしたちの視線は、何もかも捨ててキリストに従う弟子たちの姿に行ってしまいがちです。しかし、この場面の主人公は弟子となった4人の漁師なのではありません。彼らを召し出したイエス・キリストが中心人物です。
彼ら4人にどんな優れた点があって弟子として召し出されたのか、この記事を読む限り何もわかりません。しかし、はっきりとしていることは、イエス・キリストがこの4人に目を止められ、弟子として召し出してくださったということです。そこが大切なポイントです。
そして、この召し出された4人の漁師たちには、新しい仕事が託されました。それは「人間をとる漁師」という不思議な仕事です。
このようなイメージの働きを神は一度もお語りになったことがないわけではありませんでした。預言者ハバククを通してバビロニア帝国の繁栄と横暴を漁師に例えてこう描いています。
「主よ、あなたは我々を裁くために 彼らを備えられた。……あなたは人間を海の魚のように 治める者もない、這うもののようにされました。彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ 網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。 こうして、彼らは喜び躍っています。」(ハバクク1:12-17)。
ここでは、バビロニア帝国を神の裁きを代行する者として、神に逆らうユダヤの民を鉤で釣り上げ、網でかき集める漁師の姿に例えています。
それと同じようなイメージで弟子たちの働きをとらえるとすれば、弟子たちは正に神の怒りの執行人として、かぎ針で人を釣り上げ、網で人をかき集める働き人ということになります。
確かにキリストのガリラヤ宣教の第一声は神の国の到来と、悔い改めの要請でした。ですから、差し迫った神の怒りと裁きの要素が皆無ではありません。そういう意味では、ハバクク書と同じように人間をとる漁師を「神の裁き」のイメージでとらえることも可能かもしれません。
しかし、その後、この福音書を通して語られるのは、神の裁きばかりではありません。そもそも、イエス・キリストがお生まれになったのは、「自分の民を罪から救う」ためでした(マタイ1:21)。ですから、この人間をとる漁師が投げる網は、裁きの網であるよりは、人を救うために投げられる網として理解したほうが良いでしょう。もちろん、人を救うのは弟子たちではありません。イエス・キリストご自身です。そのキリストのもとへと網を打って人々を集めるのが与えられた弟子の働きのイメージです。
主イエス・キリストを信じるわたしたちもまた、このような尊い働きに召されているのです。
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