メッセージ: 福音宣教と癒し(マタイ4:23-25)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「リバイバル」という言葉があります。語源的には「回復する」「復活する」を意味する動詞「リバイブ」に由来する言葉です。リバイバルという言葉が最初に使われ始めたのは1650年代と言われています。一度衰退したり、中断したものが再び息を吹き返すことを指す言葉で、特に1660年代には、長い間上演されていなかった演劇を舞台に戻すことを指す言葉として用いられたそうです。
キリスト教会が「信仰の復興」という意味で「リバイバル」という言葉を使うようになったのは18世紀以降のことです。特にアメリカのニューイングランドを中心に起こった宗教復興運動をはじめとして、その後何度か起こった大覚醒運動を指してリバイバルと呼んでいます。また、そのような信仰的な目覚めが再び起こることを期待する運動を指してリバイバル運動と呼んでいます。
では、イエス・キリストがなさった運動は「リバイバル」と呼ぶことができるでしょうか。キリスト教の始まりはイエス・キリストにあるわけですから、キリスト教的な意味では、それは復興ではなく新しい信仰の始まりといった方が良いかもしれません。ヘブライ人への手紙の著者もイエス・キリストのことを「信仰の創始者」と呼んでいます(ヘブライ12:2)。
しかし、旧約聖書を含めた聖書全体を「まことの宗教」ととらえる観点からすれば、創造主である父なる神のもとへと神の民を再び連れ戻す運動ですから、ある意味でリバイバルということができるでしょう。その運動はいわゆるイスラエルの復興にとどまらず、堕落して神から離れたあらゆる民族の罪人を巻き込む復興運動です。
きょうの個所は、そのイエス・キリストの宣教活動の様子を伝える箇所です。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書 4章23節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
きょう取り上げた個所は、ガリラヤで始まったイエス・キリストの宣教活動の様子を伝える箇所です。既に学んだ通り、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったイエス・キリストは、荒れ野でのサタンの誘惑を退け、ガリラヤ地方へ行って、宣教の第一声を上げられました。
そのあと前回学んだ通り、4人の漁師を弟子として召し出されたことが記されているだけで、その宣教の働きがどのようなものであったのかは、まだ、この福音書には記されていません。ここで初めて、その具体的な活動とその結果が要約的に記されています。
この短い個所の位置づけは、これからマタイによる福音書が詳しく記そうとしていることの要約と言ってもよいと思います。その活動の中心は宣教と癒しにありました。
教えを伝えるということに関しては、その詳しい教えの内容が、この後に記される「山上の説教」の中にまとめて記されています。5章から7章にかけての三つの章がそれにあたります。癒しに関しては、8章から9章にかけて、個々の事例がまとめて記されています。
それぞれについては、この後、詳しく取り上げますので、きょうは具体的な内容には触れません。ただ大切なこととして、イエス・キリストの宣教活動には大きな二つの柱があったということを強調しておくことにします。
個々の事例を書き記した後、マタイによる福音書はイエス・キリストが十二人弟子たちを選び出して、彼らを宣教へと派遣する場面を描きます。そこでも、この12人の弟子たちに与えられた働きが、神の国の福音を宣べ伝えることと、悪霊を追い出し病を癒すこととに要約されています。
イエス・キリストの働きを受け継ぐ教会の宣教の御業も、この二つの働きを受け継ぐことが大切です。ただ、そのように言ってしまうと、異論を唱える声も聞こえてきます。おそらく「福音を宣べ伝える」ということに関しては、異議を唱える人は誰もいないでしょう。しかし、「病気を癒す」とか「悪霊を追い出す」ということに関しては、それが今でも教会に求められていることか、という疑問の声も上がることと思います。
現実の問題として、医者が病気を癒すように、教会が病気を癒すことはできません。あるいはホラー映画に出てくるような悪魔に取りつかれた人々から悪霊を追い出すことも、現代のほとんどの教会でそのようなことは行われていません。
そうであるかもしれませんが、病に苦しむ人に寄り添い、何もできないとしてもその人のために祈り続けます。必ずそうとは言えませんが、その祈りが聴き上げられることもあります。ホラー映画のような悪霊払いはしませんが、神の支配を拒んで生きる人々を神のもとへと連れ返そうと懸命に祈り、あらゆる機会を用います。そうした教会の働きに反対する人はいないでしょう。そうした働きをキリスト教的な愛の実践と言ってしまえば、漠然としてしまうかもしれません。しかし、この愛の実践こそが福音の宣教に不可欠だということを忘れてはならないように思います。それは丁度車の両輪のように、片方だけではまっすぐに進むことができないのと同じです。
愛の実践ということに関していえば、イエス・キリストは、見返りを期待するのは本当の愛ではないとおっしゃっています。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」(マタイ5:46)とイエス・キリストは本当の愛がどんなものであるのかを問いかけておられます。
言い換えれば、キリスト教会の宣教の御業は、結果を期待して、それを勝ち取るための手段となってはならないということです。一生懸命福音を宣べ伝えても、耳を貸してもらえるどころか、相手から敵対的な態度を取られることもあります。それでも、時が良くても悪くても語り続けることが大切です(2テモテ4:2)。
愛の実践も教会に人を集めるための手段となってしまえば、そのような愛は自分たちへの関心を見返りに期待する愛になってしまいます。
イエス・キリストに倣って、御言葉の宣教と愛の実践に励むものとなりたいと願います。そのような働きを通して、わたしたち自身が神のご支配の中に加えられていったからです。
Copyright (C) 2024 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.