命の神にわたしの魂は渇く | 詩編 42編

RCJメディアミニストリー「ふくいんのなみ」のトップページへ戻る

詩編 42編

神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 詩編 42編3節

命の神にわたしの魂は渇く

人間は、本来、造り主である神と共に生き、神を礼拝するものとして造られました。ですから、人間は、神と共にいて神を礼拝し続けなければ、本当に人間らしく生きていくことはできません。

もし人間が神を無視して自分勝手に生きていくならば、涸れた谷で、鹿が水を求めてさ迷い歩くような魂の渇いた状態に陥ってしまいます。魂の渇いた状態とは、魂が満たされないため、神を探し求めてあてどもなく生きている状態です。実は、人間は、誰もが魂の渇きの中で造り主である神を探し求めながら生きています。

また、人間は、たとえ神を信じて生きていたとしても、苦難が襲うと、たちまち神を見出せなくなってしまいます。苦難の中で、魂の渇きを自覚して神の助けを祈り求めることは、私たちにとって何よりも大切なことです。6節と12節で、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め」と語られています。

神は、苦難の中で神を探し求める人を必ず救い、魂の渇きをいやし、命を与えてくださいます。ですから、鹿が渇きをいやすために水を探し求めるように、私たちも、神がいつも共にいて命を与え、魂を満たしてくださるように、神を探し求めて祈りたいと願います。

【祈り】

神よ。きょうも私たちと共にいて、私たちの魂の渇きをいやし、私たちに命を与えてください。

浅野 正紀(江古田教会)